うである。私の一つの見方からすると、短歌の上に万葉の影響の正面から来なかつた理由も訣る。万葉調は、古今風が短歌の正調ときめられてゐた時代には、ある軽みと、背優美味が感じられたかも知れない。近代で見ても、万葉の中、常に人に喜ばれ易かつたのは、戯咲歌或は其一類の即興歌などの、優美至上主義者にとつては、あまりに露骨な滑稽感を誘ふ実生活に近い作物であつた。真淵の様に万葉の巻一・二を本体とした人は別だが、単なる万葉調歌人は、人間の哀感ともつかず、あきらめともつかず、ちやかし気分ともつかず、楽天態度ともつかないものを、多く万葉調によせてゐる。其によつて、生活気分の他人と違うてゐることの明らかな、自覚を見せてゐる。
似た事は、平安末・鎌倉初め、古今調短歌固定時代にも言へよう。万葉の歌風・調子などが、連歌誹諧歌趣味を刺戟するものとして、此頃の感じ方から見られたのであらう。新興の連歌が、式目を言つて、文学論を持つと共に短歌に於ける古今の位置に、本拠として万葉集を据ゑることは、ありさうである。短歌作家と連歌作者とが、実際まだ専門化して岐れてゐなかつた頃である。短歌・連歌二つながら作り教へるやうな、隠者生活の人たちがあつて、さうした者から得た感化ではあるまいか。仙覚が頼経に近づいて行つたのも、さうした事情に考へることも出来ると思ふ。
かうした古今と万葉との対立の為に、当時の人は、万葉を読んでも其影響は、自覚的にはうけ容れなかつたもの、と見た方がよさゝうだ。実朝は、さうした間に、習得し、会得することもあつたであらう。又多少予期してもよからうと思はれる添刪を経て、あゝした歌をこしらへ出したものであらう。だから金塊集一部には、第一短歌、第二連歌から出た無心歌――まじめな――態度の作物とがまじつてゐるのである。さうして、其当時の目で見れば一見、無心派めいた作物が、実朝の値打ちを高めた万葉調の歌であるのだ。其にしても、彼のよい方の歌には万葉の調子の外に、讃歌調があり、極《ごく》、くだけた無心態度の自由さから、世相を詠んだものなどが出て、其が融合してゐるのである。単純に万葉一本の調子と言へないやうである。
習作集と謂へば、家隆の「壬二集《ジンジシフ》」、定家の「拾遺愚草《シフヰグサウ》」及び員外も同じく、下書き歌までも録した物であるらしい。新古今其他の勅撰集に出たもの以外の、此等の集にこみ[#「こみ
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