りの日の気分の写生が、十分に出たかどうかゞ触れて見たかつたのである。どうも、あれを思ひ出させられると、たまらない。大阪で少年期を過して、今、四五十になつて居る人たちの胸は、底からゆすり揚げられる気がする。義平次殺しの日は難波祭《ナンバマツ》りらしく書いてあるが、私の育つたのは、おなじ「八阪《ヤサカ》さま」を祀つても、社は別々の隣村であつた。でも、日もおなじければ、曳く飾り山もおなじだいがく[#「だいがく」に傍線]と言ふ大きな鉾《ホコ》であつた。此だいがく[#「だいがく」に傍線]は、大阪南方の近在では皆舁いたものらしいが、最後まで執著を残してゐたのは、私の生れ里であつた。何でも五六年息まつて居て、最後に舁いたのが、日露戦争の済んだ年であつたと思ふ。
天王寺も今宮も、早く止めたが、やはりだいがく[#「だいがく」に傍線]を舁いた村である。産土神から言へば、難波・木津の祇園なのに適当だが、村の歴史から言へば、今宮が一等此に縁深さうに見えるのである。今宮は小西来山の十万堂の残つてゐる処で、果して真作かどうか疑はしいけれど、「今宮は、虫どころなり。つんぼなり。」と言ふ句が、諺の様に、いまだに旧住民
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