。万葉集編纂の時にも既に、十五巻の二部の相違に心づかずに一括して出したのであらう。成立の動機は全然違うてゐることである。
四
こゝにお恥しい想像をつけ添へて、そつと心切な後人のもりたてを待つことにする。わが国のほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]にも、創作詩人の偉大な者が現れた事はないであらうか。伝統の職業として「ほかひ」し「物語」る詩に整へられた内界を持つて、日本の歌の歴史に、創作詩の時代をわりあひに早く招きよせた天才があつたのではなからうか。死霊に聞かせるよごと[#「よごと」に傍線]とも言ふべきしぬびごと[#「しぬびごと」に傍線]=誄――語《ことば》だけは遅れて出来たもので、古くはやはりよごと[#「よごと」に傍線]と言うたであらう――の為事を奪ふばかりに、後の所謂竹林楽なる挽歌が進んで来たのは、死霊を慰めた遊部《アソビベ》の歌舞と、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の進んだ詞句との交渉があつたであらう。遊部は舞を専《もつぱら》にし、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]が竹林楽の詞曲を作成する時が来た。其が、宮廷詩人の初まりである。喪事から段々離れ、醇化して宴席の曲その他を作る様に進んで来るが、新よごと[#「新よごと」に傍線]の製作は、段々散文化すると共に、教養ある学曹の手に移つて行つた。
一方神遊びの詞曲・狂乱の舞踊の文句は、古伝ある物以外は、民謡・童謡をとつて、此側の出身者の手を煩さなかつたのであらう。
古墳の多い奈良南郊に本貫のある柿本氏は、遊部・ほかひ[#「ほかひ」に傍線]に何の関係もないか。私は、人麻呂をほおまあ[#「ほおまあ」に傍線]にして、更に詩形に改革を促したものと考へてゐる。ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の家元とも言ふべきよごと部[#「よごと部」に傍線]・ほかひ部[#「ほかひ部」に傍線]の伴造《トモノミヤツコ》ではないか。柿本氏が倭朝廷の遊部又は「吉言部《ヨゴトベ》」から出たとすれば、極めて意味のあることになるのだ。私は、人麻呂が、山陰の西、中国を歩いて居るのは、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の足跡の及んで居た一部を示すものかと思ふ。
ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の間に、文芸の才の優れた者が続出するうちには、叙事詩としておもしろいものゝ新作が出来て来るであらう。宅守相聞の如きは、単に文人意識ある有識者の手で作られたものと言ふより、ほかひゞと[#「ほかひゞと」に傍線]の補綴によつてなつた「組み歌」なること、ずつと後世の世阿弥の如き専門家の手で出来た、意識的に旧叙事詩を改作・補綴したものではないかと思ふのである。
右の仮説は、今は真の仮説に止るであらう。併し、宅守・茅上相聞の歌が、創作詩でないことだけは考へねばならぬ。
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我々の国に於て、異神の信仰を携へ歩いた事は、幾度であるか知れない。古く常世神・八幡神の如きが見えるのは、神道の上にも、段々の変遷増加のあつたことを示してゐるのだ。倭媛の如きも、実は日の神の教への布教者として旅を続けた人であつたのである。倭を出た神は、伊勢に鎮座の処を見出したのであつた。此高級巫女から伺はれる事実は、飛鳥・藤原の時代に既に、異教の村々を巡遊した多くの巫女のあつたことである。豊受[#(ノ)]神は丹波から移り、安菩《アホ》[#(ノ)]神は出雲から来て居る。同時に古代幾多の貴種流離譚は、一部分は、神並びに神を携へて歩いた人々の歴史を語つてゐるのである。天[#(ノ)]日矛の物語・比売許曾《ヒメコソ》の縁起は、史実と言ふより、蕃神渡来の記憶を語るものであらう。
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底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
※題名下に「大正十五年頃草稿」の記載あり。
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年頃草稿」はファイル末の「注記」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
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