ある顔である。身毒があれかこれかと考へてゐるうちに、其顔は、段々霞が消えたやうに薄れて行つた。彼の聨想が、ふと一つの考へに行き当つた時に、跳ね起された石の下から、水が涌き出したやうに、懐しいが、しかし、せつない心地が漲つて出た。さうして深く/\その心地の中に沈んで行つた。
山の下からさつさらさらさと簓の音が揃うて響いて来た。鞨鼓の音が続いて聞え出した。身毒は、延び上つて見た。併し其辺は、山陰になつてゐると見えて、其らしい姿は見えない。鞨鼓の音が急になつて来た。
身毒は立ち上つた。かうしてはゐられないといふ気が胸をついて来たのである。

(附言)
この話は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便風な分子をとり去つて、最原始的な物語にかへして書いたものなのです。
世間では、謡曲の弱法師から筋をひいた話が、江戸時代に入つて、説教師の題目に採り入れられた処から、古浄瑠璃にも浄瑠璃にも使はれ、又芝居にもうつされたと考へてゐる様です。尤、今の摂州合邦辻から、ぢり/\と原始的の空象につめ寄らうとすると、説教節迄はわりあひに楽に行くことが出来やすいけれど、弱法師と説教節との間には、ひどい懸隔があるやうに思はれます。或は一つの流れから岐れた二つの枝川かとも考へます。
わたしどもには、歴史と伝説との間に、さう鮮やかなくぎりをつけて考へることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或は更に進んで劇の形を採らねばならぬと考へます。わたしは、其で、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うて見たのです。この話を読んで頂く方に願ひたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語りてといふ立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の径路は、わりあひに、はつきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴はるべきものだけは這入つて来ても、決して生々しい作為を試みる様なことはありません。わたしどもは、伝説をすなほに延して行く話し方を心得てゐます。
俊徳丸といふのは、後の宛て字で、わたしはやつぱりしんとくまる[#「しんとくまる」に傍点]が正しからうと思ひます。身毒丸の、毒の字は濁音でなく、清音に読んで頂きたいと思ひます。
わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐると思うてゐます。但し、謡曲の弱法師といふ表題は、此物語の出自を暗示してゐるもので、同時に日本の歌舞演劇史の上に、高安長者伝説が投げてくれる薄明りの尊さを見せてゐると考へます。



底本:「死者の書・身毒丸」中公文庫、中央公論新社
   1999(平成11)年6月18日発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
   1954(昭和29)年11月
      「折口信夫全集 27」中央公論社
   1997(平成9)年5月
初出:「みづほ」第八号
   1917(大正6)年6月
※踊り字(/\、/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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