のは、貸借行為の解放であつて、一たび其詔勅が下れば、一切の債権・債務が帳消しとなるのである。そこで、其関係を男女の関係に当てはめて、軽い皮肉を云つたのが此歌である。こゝに「みのり」とあるのは、朝廷からの命令の事で、憲法を「みのり」と訓むのと、意味に於ておなじことであるが、畢竟此も祝詞であつたのが原形だと見てよい。
商変のみのり[#「みのり」に傍線]の思想は、察するところ、春の初めに、天皇陛下が高御座に上つて、初春の頌詞を宣らせられると、又、天地が新になるといふ思想から、出てゐるのであらう。後には此宮廷行事が、御即位の時だけしかなくなつたが、高御座は、天皇陛下が、天神とおなじ資格になられる場所である。一たび其処へお登りになれば、その宣らせ給ふお言葉は、直ちに、天神自身の言葉である。そして其お言葉が宣られることに依つて、すつかり、時間が元へ復るのである。商変のみのり[#「みのり」に傍線]の効力は、畢竟、此と同一観念に基くものである。民間に関した記録が尠い為に、後世、室町時代に現れた徳政の施行が、物珍らしい事の様に、一部では見られてゐるが、祝詞に対する信仰から云へば、此は当然の形であつて、我が国には古くからあつた事なのである。
かういふ風に、祝詞の力一つで、時間も元へ戻るし、又場所も、自由に移動する。即、時間も空間も、祝詞一つで、どうにでもなるのである。
我が国には古く、言霊《コトダマ》の信仰があるが、従来の解釈の様に、断篇的の言葉に言霊が存在する、と見るのは後世的であつて、古くは、言霊を以て、呪詞の中に潜在する精霊である、と解したのである。併し、それとても、太古からあつた信仰ではない。それよりも前に、祝詞には、其言葉を最初に発した、神の力が宿つてゐて、其言葉を唱へる人は、直ちに其神に成る、といふ信仰のあつた為に、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思ふに至つたのである。だから、言霊と言ふ語の解釈も、比較的に、新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と云はねばならぬ。世間、学者の説く所は、先の先があるもので、かう言ふ信仰行事が、演劇・舞踊・声楽化して出来たのが、日本演芸である。だから日本の芸術には、極端に昔を残してゐる。徳川時代になつても、その改められた所は、ほんの局部に過ぎない。そして注意して見ると
前へ 次へ
全20ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング