るならば、そして又、今日の生活の由つて来る所を示すものとしたら、研究者としては、耻ぢる事なしに此を調べて、仔細に考へて見る必要があらう。
又近頃は、哲学畑から出た人が、真摯な態度で神道を研究してゐられる事であるが、中にはお木像にもだん[#「もだん」に傍線]服を著せた様な、神道論も見受けられるやうである。此なども甚困つたものである。要するに、現代の神道研究態度のすべてに通じて欠陥がある、と私は思ふ。
そこで私の意見は、国学院雑誌(昭和二年十一月号の巻頭言)にも述べて置いたが、現代の神道研究に於ては、古代生活の根本基調、此をきいのおと[#「きいのおと」に傍線]といふか、てえま[#「てえま」に傍線]と云ふか、とにかく、大本の気分を定めるものが把握されてゐないのが、第一の欠点であると思ふ。すべての人は、常に、自分が生活してゐる時代や環境から、其神道説を割り出してゐるが、個性の上に立ち、時代思想の上に立つての神道研究は、質として、余りに果敢ないものである。我々が、正しく神道を見ようとするには、今少し、確かなものを掴んで来なければならぬ。
敢へてこんな事を言ふのは、僣越であるかも知れぬが、とにかく私としては、日本民族の思考の法則が、どんな所から発生し、展開し、変化して、今日に及んだかに注目して、其方向から探りを入れて見たい。いゝ事ばかりを抽象して来て、論じたのでは、結局嘘に帰して了ふ。
神道の美点ばかりを継ぎ合せて、それが真の神道だ、と心得てゐる人たちは、仏教や儒教・道教の如きものは、皆神道の敵だとしてゐるが、段々調べて見ると、神道起原だと思ふ事が、案外にも仏教だつたり、儒教又は道教だつたりする事が、尠くない。こんな事になるのは、つまり日本人の民族的思考の法則が、ほんとうに訣つてゐないからである。日本人の民族文明の基調が、外国人のものに比べて、どれだけ、特異に定められてゐるかを見ずに、末梢的な事ばかりに注意を払つてゐるから、いけないのである。
私は此民族論理の展開して行つた跡を、仔細に辿つて見て、然る後始めて、真の神道研究が行はれるのであると考へる。卒直に云ふならば、神道は今や将に建て直しの時期に、直面してゐるのではあるまいか。すつかり今までのものを解体して、地盤から築き直してかゝらねば、最早、行き場がないのではあるまいか。今までの神道説が、単に、かりそめ葺きの小屋の、建てまし
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