節の正本に、其がある。表題は「信太妻《シノダヅマ》」である。併しこれにも、尚今一つ前型があるので、その正本はどこにあるか訣らないが、やはり同じ名の「信太妻」といふ説経節の正本があつたやうである。「信太妻」の名義は信太にゐる妻、或は信太から来た妻、どちらとも考へられよう。角太夫の方の筋を抜いて話すと、大内鑑の様に、信太の荘司などは出て来ず、破局の導因が極めて自然で、伝説其儘の様な形になつてゐる。
或日、葛の葉が縁側に立つて庭を見てゐると、ちようど秋のことで、菊の花が咲いてゐる。其は、狐の非常に好きな乱菊といふ花である。見てゐるうちに、自然と狐の本性が現れて、顔が狐になつてしまつた。そばに寝てゐた童子《ドウジ》が眼を覚まして、お母さんが狐になつたと怖がつて騒ぐので、葛の葉は障子に「恋しくば」の歌を書いて、去つてしまふ。子供が慕ふので、安名が後を慕うて行くと、葛の葉が姿を見せたといふ。此辺は大体同じことであるが、その前後は、余程変つてゐる。海音・出雲が角太夫節を作り易へた、といつた様に聞えたかも知れないが、実は説経節の影響が直接になければならぬはずだ。
内容は数次の変化を経てゐるけれど、説経節では其時々の主な語り物を「五説経」と唱へて、五つを勘定してゐる。いつも信太妻が這入つてゐる処から見ると、此浄瑠璃は説経としても、重要なものであつたに違ひない。それでは、説経節以前が、伝説の世界に入るものと見て宜しいだらうか。一体名高い説経節は、恐らく新古の二種の正本のあつたものと考へる。古曲がもてはやされた処から、多少複雑な脚色をそへて世に出たのが、刊本になつた説経正本であらう。
二
さて此処までは、書物の世界のことだから、書物の知識が直接に伝説の中にとり入れられるといふことも考へられるのだが、此から先は、用意がいる。伝説の世界には、どの本が種本になつたといふ様なことは言へない。これ/\の本にあることが記録せられる以前に、影響を与へたかも知れぬ。これ/\の地方の伝説は此とよく似た、割合古い種を持つてゐる様だ位のことしか言へないのだ。其訣らぬものゝ値打ちを、だん/″\探して行くと、吾々の祖先の生活に対して、極小さな、けれども大きな組立てを暗示する所の一つの見当が、立つて来るのである。
まづ小口から片づけて行く。全体、妻の姿をした者が、同時に二人現れて、夫が迷ふと言ふ型の話は、古くからある。今昔物語にあるのなどは著しい例で、道に立つて居た人妻を見て、其姿になつて、亭主をだまさうとした狐の話と、狐が乳母に化けて、本の乳母と子供を奪ひ合ふのを、雅通中将が判断に迷うた話、殊に瓜二つとも言ふべき話が、並んで出て居る。其系統の伝説から段々筋を引いて来て、近松の「双生《フタゴ》隅田川」になつたのが、劇としては「隅田川続俤」まで遥かに続いて居る。二人のお組の片方は、野分姫の霊と法界坊の霊とが、絡みあつて居る。出雲は趣向だけを敷き写しにとつて「大内鑑」では、二とこまで、役に立てゝ居る。安倍野村の段ばかりでなく、信太の森でも悪右衛門の駕籠を舁く奴が三人出て、名高い「われがおれか。おれがわれか」と言ふ問答になつて居る。
二人妻ではないが、似た話がある。江戸の極浅い頃に出来たのだらうが、板行せられたのは、出雲あたりの死んだ後の物なる、鈴木正三の「因果物語」といふものゝ中に、出羽の最上の商人、京へ出稼ぎして、京女を妻にしたが、用事で国元へ戻ると京の妻が後を追うて来た。商人は最上の妻を逐ひ出して、京の妻を家に入れて子を産ませた。其後再、男が上京して、定旅籠に来ると、亭主の言ふには、お気の毒な事には、あなたに連れ添うた例の女は、煩うて死にましたと言ふ。いやそんな筈があるものか。此々の訣で、最上へ来て子まで産んで居ると言つたので、亭主が女の父親に話すと、父親が娘に会ひに、最上へ下つた。最上の家で、父親に会はせようとしても、女房は出て来ない。女房の部屋に這入つて見ると、父親が京で立てゝ置いた卒塔婆が、そこに立つて居た。卒塔婆の産んだ子供と言ふので、霊童と呼んで居たよしが、見えて居る。此本の系統が、英草紙になり、雨月物語になりしたのだから、上田秋成が「浅茅が宿(雨月物語の内)」の暗示をこゝに獲たのは疑ひないであらうが、似て居るのは卒塔婆のくだりで、外の部分は、今昔物語にある京の妻を棄てゝ地方官について下つた生侍《ナマザムラヒ》が、五年目に上京して、妻の死体と寝た話のまる写しなのである。最上へ訪ねて行つた父親は、信太荘司によく似て居るではないか。
ちよつと似て居れば、此本から此本の話が出た、此伝説は、何の本の話が元だ、と簡単に結着をつける事が喜ばれる。併しさうした結論は、きめたがる人がきめただけの論で、実際の系統は、さう平明にわかるものではない。妻の父が来て、正体が露れ
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