私は、第三の方を重く見てゐる。壱州の民は、わり[#「わり」に傍線]の班田を受ける事の出来るのと出来ないのとの二種の群居に分れてゐた。浦に住んで、漁業・航海業を認められてゐた町方の人は、其代り、わり[#「わり」に傍線]を受ける事は出来なかつた。唯、今ある武生水村郷野浦の端、山陰にある本居《モトヰ》の村は、郷野浦の本拠なのであるが、此はれふし[#「れふし」に傍線]村とは言ふが、蜑に近い扱ひを受けてゐた。班田に与る事の出来ないと言ふのも、稼業の性質として、田が作られないからではない。片手間に農作をする例は幾らもある。自家の収獲なる海産物を持つて出て商ふ事から、蜑の家の女は次第に商業に専門になつて、男蜑ばかりの小崎の様な形式が生じた。男は潜きの外に、いざり(沖漁)に熟して、蜑よりも漁師に傾く。
壱州では、町方《マチカタ》町人でない村方百姓の中、浦に沿ふ村では、わり[#「わり」に傍線]を受けながら、漁業をも兼ねてゐた。町方で、商買のない者も多かつた。わり[#「わり」に傍線]も与へられないのだから、村方へ卵を買ひ出しに行つたりして、商買に似た事もやつたりして、口過ぎした者もあつた。新田を開いて、わり[#「わり」に傍線]以外に地を持つ事は許されてゐた事などから見ても、大体血統的に町人・百姓の資格が極つて居て、土地の所有権は先天的のものと考へられて居たのだ。だから、町人と村方百姓の漁業を営む者との間の区別の立ちにくい事情の者でも、村に生れた資格として、わり[#「わり」に傍線]を受け得たのである。
島の町人の職業は、前に挙げた位の単純なものであつた。工業の方面の諸職は、志原の百姓に多かつたことを見ても、町人の範囲は極めて狭く、土地の所属決定した後代に移住した者又は、本来土地に関係のない生業を持つた者、海岸の除地に仮住してゐる者として、政治的交渉を持つことの殆なかつた者――元は、毫もなかつた――此等の群居民が、村をなし、土地の政治の支配を受ける様になつても、田はわられなかつた。此は、蜑の団体から発達したことを見せてゐるのだ。町人の普通の者で、身分の低いものを見れば、蜑との繋りが見えよう。村方の並みの百姓と同格で、町役を勤めることの出来ぬ階級をかこにん[#「かこにん」に傍線](水子人)と言ひ、又浦人とも言ふ。平戸侯の参覲には、水子《カコ》として、船役を命ぜられた。町人の代表階級なる、浦人
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