附随して行はれた様式で、村や家によつては、行はない処もあつた。其が、世間の風習にとり残された形になつた時代に、合理的な説明をくつゝける様になつて行つたのである。宮廷及び皇族では、正月松飾りをせられない。此亦、同じ理由であつた。
かうした、民譚や風習をこめた民間伝承に説明を加へて、一続きに置きなほして見ると、此国の生活が、可なり古い姿に踏み止つてゐる事が知れさうだ。
畏れ多い話だが、神功皇后の鎮懐石でも、筑前に在つたものは、巨大な二箇の石で、万葉集にまで大きさが記されてゐる。裳に挿ませられた、と言ふ書き方が婉曲すぎたので、胎中天皇御出生の途を塞がれた、と言ふ古い考へ方は忘れられた様で、腹圧への様に思はれてゐる。壱岐へ来て聞くと、其石を撤して棄てられたから、尊い王子は此時、出現ましましたのである。壱州の先覚者の中には、こんな伝へを材料にして、応神天皇壱岐誕生説を組み立てよう、とさへした人がある。九州子負[#(ノ)]原の石の二つあつた理由は、手間は要るが、説明は出来る。おほゝと[#「おほゝと」に傍線]・をほと[#「をほと」に傍線]など言ふ、かけまくも畏き御名の方がお出でになつたのも、かうした信仰から、英雄・女傑の資格の一つ、と考へる様な事もあつたことを示してゐる。万葉にすら判然せぬ事を、島の粗い趣味には、いまだ原義を残す古さがあつた。其石は今も、勝本の聖母《シヤウモ》神社の北の浜に落ち散つてゐる。白い石の尖つた先に、赤く染つた部分があると言ふ。此は、小さな石である。
国の史官が大事件として、とり扱うた史書の上の事実も、凡俗生活をくり返す、ぢべた[#「ぢべた」に傍点]に喰つゝいた様な人々の上には、一時の出来事として、頭を掠めたゞけで、通り去つてしまふ。蒙古軍が来て、今の島人の脈管に、此島根生ひの血の通はないまで、古い住民を根こそぎに殺して行つたと言はれてゐる。此には、大分の誇張を考へに入れてかゝらねばなるまいが、ともかくも、あんな大事件のあつた痕跡は、誰の頭の隅にも、残つてはゐない。蒙古軍の伝説はあつても、皆、昔からの鬼の話の飜訳に過ぎなかつた。李白の襄陽歌が、其だ。晋代の羊公の碑が、丘の上に台石の飾りも風化して、苔が生えてゐる。こんな状を見て、何とも感じないのは、昔、さうした謝恩の碑を建てた民の子孫であつた。物が残つてゐても、時が立てば忘れもし、印象も薄らいで行く。大嵐の
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