帯で締めてゐた。十六七だらう。日にも焦けて居ない。頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおりて行つて後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私の側《ソバ》に、海の面きり眺めてゐた。
時々頭を擡《モタ》げると、いつも此少年の目に触れた。大学病院へ通つてゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たくなつた程、好感に充ちた無言《ムゴン》の行《ギヤウ》であつた。島の村々を、※[#「魚+昜」、90−10]・干し鰒買ひ集めに、自転車で廻る小さい海産物屋の息子で、丁稚替りをさせられてゐる、と言つた風の姿である。其でゐて、沖縄に四十日ゐて、渋紙から目だけ出してゐる様な、頬骨の出張つた、人を嘲る様に歯並みの白く揃うた男女の顔ばかり見て暮した目のせゐか、東京の教養ある若者にも、ちよつとない静けさだと思つた。なる程、壱岐には京・大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の二十日《ハツカ》は、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起してゐた。
此島では、つひ七十年前まで、上方の都への消息に「もしほたれつゝ」わびしい光陰の過し難さを訴へてやつた人たちが住んでゐた。「愍然想《リンギヨギヤ》つてくれ召《メ》せや」と磯藻の様になづさひ寄る濃い情《ナサケ》に、欠伸を忘れる暇もあつた。幾代の、さうした教養ある流され人の、潮風あたる石塔には、今も香花を絶さぬ血筋が残つてゐる。此静かな目は、海部《アマ》や、寄百姓《ヨリビヤクシヤウ》の心理をつきとめても、出て来るものではないだらう。「島の人生」に人道の憂ひを齎した流人《ルニン》たちは、所在なさと人懐しみと後悔のせつなさ[#「せつなさ」に傍線]とを、まづ深く感じ、此を無為の島人に伝へたであらう。
此島人が信じてゐる最初のやらはれ[#「やらはれ」に傍線]人|百合若《ユリワカ》大臣以来、島の南に向いた崎々には、どの岩も此岩も、思ひ入つた目ににじむ雫で、濡れなかつたのはなからう。都びとには概念であつた「ものゝあはれ」は、沖の小島の人の頭には、実感として生きてゐた。少年の思ひ深げな潤んだ瞳は、物成《モノナリ》のとり立てにせつかれたゞけでは、島の世間に現れようがなかつた。其は憧れに於て恋の如く、うち出したい事に於ては文学を生む心に近づいたものである。
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