た。――さう事實を設定して見れば、説明がし易い。其女性に相當知り合ひになつた彼が、手記を借りて讀む。小説の上の生活は、これから出發する。其と共に、虚構の生活は、先へ/\と蹈み出して行く。さうした生活を註釋するやうに、或は確實性を持たせる爲の樣に、小説の上の娘との交渉が進んで行く。謂はゞ、科學者の行ふ實驗のやうに、彼においては、生活の實驗が行はれて行くのである。
――私は斜陽の發表を、次々に見てゐる中に、ふつとそんな氣が起つた。小説の終末が作者の現實の中に留るか、更に虚構の世界にはみ出して行つてしまふか、この二つが頭に浮んで來た。だが、どちらも作者の考へとは喰ひ違つたことになる。これはどうしても、作者の肉體が限界になる。肉體の強靱がものを言つて[#「ものを言つて」に傍点]、虚構を征服してしまはねばならぬ。さうでなければあぶない事になる。こんな危殆《ヒアイ》な感じが心を掠めたものだつたが、何分實際に作者に行き逢つてゐない。知つてゐるのは、春部の話して聞す太宰君だけである。友人を清く見せることが、自分の生活のよさを示すことだと思ふ癖が、一群の青年にあるのだから、春部も、さういふ風の太宰君だけを語つて、私の太宰觀を清くすることに努めてゐた。だから、勘のわるい私には、太宰君の運命をつきとめて考へることが出來なかつた。又、出來たところで、どうなるものでもなかつたが……。その間に太宰君は小説を超えて、――或はまだ著手しない小説の爲に、中年と若年の間に彷徨してゐる男と、若い女との戀愛を實驗しはじめてゐたのであつた。此未著手の小説は、作者の體力の爲か、現實としても未完成に終つたが、あの境をのり超えてくれゝば、其は其で又、さうした男女關係に一つの解決が與へられたのであらうのに――。
太宰君は勉強家で小説の源頭の枯涸することを虞れて、いろんな古典を讀んだ。さうして其效果は、いろんな形で、その作物の上に現れてゐる。この書物の上に彼の積んだ經驗は、我々安んじて眺めることが出來る。だが、世上人としての經驗は、學生と文學者以外になかつた君である。言はゞ懷子《フトコロゴ》のやうな一生だつた。もつと經歴を積んでくれねばならなかつたのだ。ところが流行作者としての生活が、彼を、家と爲事場《シゴトバ》と、其から心を養ふ爲の呑み屋とから、遠く離れて遊ぶことを許さなかつた。唯彼は勉強した。からだ[#「からだ」
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング