国を慕ひ哭く荒神の慟哭の描写は、「八拳《ヤツカ》髯|胸前《ムナサキ》に垂れ云々」からが、其印象のまゝである。又、兄八十神に殺されては、復活を重ね、其都度偉大に成り整うた大国主の、母神及び貝《カヒ》姫の介添へを得た様は、全くそのまゝ誉津別皇子の物語に入つて居る。而も、此皇子の威力は、出雲大神の霊験に由つて現れることになるのだから、どうしても、上の二柱を祖神とする出雲国造家の禊ぎに由来するものなることは察せられる。而も、其出雲人の系図は、記紀何れの伝へで見ても、殆ど総べて水神――寧、水の聖役を奉仕する者として――を列ねてゐるもの、と考へられるのである。我々に伝はらない事で、出雲の神道には、喫ぎを中心とした鎮魂術の存在して居た事を示すものであらう。其上此行法に由る布教と、その由来を説く詞章とがあつたらうと言ふことが考へられる。
又一方、多遅比部の伝承とおなじものが、少なくとも三種類は見られる。幼神をとりあげ[#「とりあげ」に傍点]・養育《ヒタ》す事を説くに、やはり選ばれた「島の清水」――淡路の瑞井――と、特殊な呪法とのあつたことが窺はれる。而も歴史の記述以外に、丹氏《タンシ》の広く諸国に拡つてゐるのは、此物語を以て、儀礼の起原と威力とを盛んにした布教団のあつた事を示すものである。
偶然乍ら、誉津部の場合には、幾分其痕跡が見られる。古事記によると、皇子、出雲大神を拝みに、大和から出向かれる時、到る所に誉津部を残された由が見えてゐる。つまり、此皇子を中心にして、出雲神道の分派を、宣伝した神伶部曲が、其止る所毎に部落を構へ、又幼神養育の物語を伝へて行法を事とした痕を示してゐるのだ。
凡、かう謂つた種類の数限りない古代の宣教部曲は、その構成と方法と、旅行の形と詞章の内容とに亘つて、類型的なものを通有してゐたことは事実だつたらしいのである。
私は、此等の部曲の運動から説き起して、日本における宗教文学の内容と形式との推移を尋ねたいと考へてゐるのである。
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私は、今日この原稿を江州日野の外山に向ひ乍ら、書いてゐる。明日からの数日は、緘黙《シヾマ》の近代民なる木地屋の本貫、君[#(个)]畑・大君[#(个)]畑の山わたりして、勢州へ越える。その山道が空想らしく、極めて寂しげに浮んで来る。実は、此黙々たる山の部曲も、昔はある文芸を携へて、里人の上に唱導の影を落して過ぎたのではないか。かうした考へすら、ひらり/\心をかすめて通つてゐる。
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底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
※底本の題名の下に書かれている「草稿」はファイル末の注記欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2009年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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