言ふ「寝殿」へ通る入り口である。群行神なればこそ、中門を入らうとして此口において、芸を奏したのである。万葉巻十六の「乞食者詠《ホカヒビトノエイ》」の「蟹」の歌に、「ひむがしの中の御門ゆ参《マヰ》入り来ては……」とあるのは、祝言職者の歌である為、中門口を言うてゐるのである。後には、中門も、東西に開き、泉殿《イヅミドノ》・釣《ツリ》殿を左右に出す様に、相称形を採る様になつたが、古くはどちらかに一つ、地形によつて造られて居たものと思はれる。だから場合によつては、南が正面にも、北が其になる事も、あつたであらう。又、宮廷の如きは、四方の門を等しく重く見るのが旧儀であつて、其が次第に、南面思想に引かれて行つたものらしい所を見ると、宮廷内郭の玄輝門或は、其正北、外廓に当る朔平門に関して考へねばならぬ。其北の最外郭にあるのは、古くから不開御門《アケズノミカド》と呼ばれた偉鑒門《ゐかんもん》である。即、正南門の朱雀門に、対当する建て物であつた。彼通称を得た理由としては、花山院御出家に際して、此門から遁れ出られた事の不祥を説いて居るが、此は民俗的な考へ方だけに、史実でない事が思はれる。

      北御門《キタミカド》

普通、社寺或は民家で、「あけずの門」と称する物は、必祭日或は、元旦などに、神を迎へる為に開く為のみの用途を持つて居たもの、と言ふ事は、明らかである。其だけに、此宮門正北の不開門も、昔は時を定めて稀に開く事があつた事と思はれる。北方の諸門は、皇后・中宮その他、後宮の出入所になつて居た。だから従つて偉鑒門も、後宮に関係深かつたものだ、と思はれる。所謂不開門になつてからは、その為事を達智門に譲ることになつた。宮廷に行はれた四種の鎮魂儀礼の中、鎮魂祭は、大倭宮廷の旧儀である。其外、清暑堂の御神楽と、内侍所の御神楽とでは、自ら性質が違つて居り、尚その他にも幾種類同様なものが練り込んだか知れないが、其中俤の察せられるのは、北御門の御神楽なるものゝ存在である。唯、其が独立して居たものやら、この神楽の一部分やら訣らぬ事である。恐らくこの神楽歌の名称には其北方から、宮廷に参入して来た姿を留めて居るのではないか。結局「承徳三年書写古謡集」に並記せられた介比乃《ケヒノ》神楽(気比神楽)と一続きのものであるまいか。宮廷において北御門と正式に呼ぶ事の出来るのは、此門だけである。私は曾て、偉鑒
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