ぐ様、節にかけて謡はれる詞曲である事が、流行を煽らないでは居なかつた。今様合せも、元の形は、うかれ女の咽喉よりは、其文句を聞いて、優劣を定める処にあつたのであらう。即歌合せの披講よりは、近代様の節廻しで、読み上げられたものであつたらう。とりも直さず、二句の短歌の替りに、四句の形を以てせられた歌合せと謂つた姿である。
だが、今様合せは、歌合せの様式を、まる/\模倣したと言はれぬ。却つてそこに歌合せの第二因がある。大寺の間に行はれた講式讃歌の元々|偈《げ》として独立もして居た部分、此が宮寺の巫女の法文歌として独立する訣はある。同音で唱へる場処と、交互に謡ふ場処とがあり、其処が「論義」風に唱和態を採るものであつたからだらう。寺にも勿論、此形が行はれて、今様合せの形は整うたものと思ふ。此が、宮廷の歌合せの闘詩・聯句の後入因を併せたものと、一つになつて了うたのであらう。
其外に、一歩進んで、讃歌体に、奈良以前からも試みて居た所の、短歌の形による讃歎詞があつて、平安中期固定の神楽歌――今の所謂《いはゆる》――にはなかつた讃頌或は、宣布の目的に叶へようとした。かうして出来た釈教歌が、僧家の鬱散に弄ばれる様になるまでには、長い時を経た事であらう。さう言ふ短歌の形の讃頌が、やはり、今様の発生と似た道筋を、通つた事は察せられる。女の側の歌垣が、踏歌に習合せられたと同様に、男の方では、寺家の講式・論義と併せられて、痕を止めてゐたと見る事も出来る。で、女房の贈答の巧みなのに対して、法師の唱和に馴れてゐた事実も説明はつく。説経僧が、即座に歌を詠んで、聴問衆を感動させた例は、※[#「代/巾」、第4水準2−8−82]《ふくろ》草子・今昔物語などに見えてゐる。内道場などに出入る僧の、女房とかけ合せた恋歌の形をとつたものゝすべてを、直に、堕落の証と見ることは出来ない。寺家の歌が、さうした道から習熟せられて、遂に一風を拓く様になるまでには、二通りの別な傾向が見られる。
宮廷の流行を逐ふ軟派と、時流に染まないで、讃頌の旧手法を保つてゐた謂はゞ硬派に這入る者とがあつた。此方は、ごつ/\して、歌の姿や、しらべには無貪著《ムトンヂヤク》である。仏語を入れるかと思へば、口語発想も交へる。平民生活の気分も、自然出て来て居る。鄙《ひな》びては居るが、信頼の出来る、古めかしい味ひを持つてゐた。此二派のけぢめ[#「けぢ
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