ひ浮べて、其報復を欲する意を言ふ処に落ちついたのである。
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……群鳥の わが群れ行《イ》なば 引け鳥の 我が牽け行《イ》なば、哭かじとは 汝は云ふとも、山門《ヤマト》の一本薄《ヒトモトスヽキ》 頸《ウナ》傾《カブ》し 汝が哭かさまく、朝雨の さ霧に彷彿《タタ》むぞ。……(八千矛神――記)
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群鳥のわたるを仰いで、群れ行かうとする事を言ひ、其間に次の発想が考へ浮ばないから、ゆとりを持つ為に、対句として引け鳥を据ゑて、誘ひ立てられて、行かうとする事を述べ、やつと別れた後の女の悲しみに想到して、気強く寂しさに堪へようと云ふ女に反省させる様な心持ちを続けて来てゐる。そして目前の山門《ヤマト》の薄の穂のあり様を半分叙述するかしない中に、うなだれて泣く別後の女の様を考へ、それから其穂を垂らす朝雨に注意が移つて、其細かな粒の霧となつて立ち亘つて居る状を言ひ進める中に、立つと言ふ語《ことば》から転じて幻の浮ぶと言ふ意のたつ[#「たつ」に傍点]に結びつけたのである。此などは、予期から出た技巧として見ると、なか/\容易に出来さうではないが、尻とり文句風に言うて居る中に、段々纏つて行つたものである。
此は一つには、時代として即興的にかけあひ文句[#「かけあひ文句」に傍線]を番《つが》へ争ふ歌垣などがあつて、さうした習練が積まれた事も、かうした発想法の自由さを助ける様になつて居たのである。併し此おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の歌の様なのは、口頭の修正の重り加つたものと思はれる程、表現の的確な物である。山門《ヤマト》の薄一本にかゝる朝雨を捉へて居る処も、客観描写の進んだ時代の物とすれば、不思議はない。修辞法の効果なども印象的に来るのは、「粟原の韮《カミラ》」や「垣下の薑《ハジカミ》」などの印象の淡い空虚な序歌となつて居るのと比べれば、そこに時代の進んで居ることが見える。神武記の物よりおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の情詩の方が、新しい事は推せられる。更に時代の降つた応神紀の歌が、発想法から見れば、又却つて古い時代の物だと言ふ事を見せて居るのは、をかしい。
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いざ吾君《アギ》。野《ヌ》に蒜《ヒル》つみに 蒜つみに 我が行く道に、香ぐはし花橘。下枝《シヅエ》らは人みな取り、秀枝《ホツエ》は鳥|棲《ヰ》枯し みつぐりの 中つ枝の 含隠《フゴモ》り 赤《アカ》れる処女《ヲトメ》。いざ。さかはえな(応神天皇――日本紀)
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此などは全く、案を立てたものでない事が明らかだ。「いざあぎ」は語頭の囃し語で「いざ人々よ、謡ひはじむるぞ。聴け」と言ふ程の想を持つたのが固定して、あちこちの謡につくのである。
野で逢うた処女に言ひかけた歌であらう。――酒宴の節、髪長媛をおほさゞきの命[#「おほさゞきの命」に傍線]に与へようとの意を、ほのめかされたのだとする記・紀の伝来説明は、歌にあはない。此は、さうした事実に、此歌の成立を思ひよそへた大歌《オホウタ》(宮廷詩)についてゐた説明なのであらう。
野に見た処女の羞らうて家も名もあかさぬのに言ひかける文句をまづ、蒜《ヒル》つみから起して、一本立つ花の咲いた橘の木に目を移し順々に枝の様を述べ、恐らく其枝々の様子を、沢山の少女はあるがどれもこれも処女ではないのを不満に思ふ心に絡まし、直に主題に入りかねて、対句を利用した後、稍《やや》考への中心は出来て来たが、やはり躊躇しながら、中つ枝の様子を述べてゐる。此が却つて、外的には注意を集めるだけの重々しさを出して居る。中つ枝の伸びない、芽吹きの若さに心がついて、思ふ処女の人を恥ぢる、まだ男せぬ女らしい艶々しい頬の色を讃美する点に達したものだ。但、此歌は、まだ続きの文句か、第二首目かゞあつたのが、脱落した儘で伝つたものと思はれる。
此に答へたおほさゞき[#「おほさゞき」に傍線]の歌も、必しも赤れる処女を貰うた礼心の表されたものとは云はれぬ。
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水たまる 依網《ヨサミ》の池に 蓴《ヌナハ》くり 延《ハ》へけく知らに 堰杭《ヰグヒ》つく川俣《カハマタ》の江の 菱殻《ヒシガラ》の刺しけく知らに、我が心し いや愚癡《ヲコ》にして(大鷦鷯命――日本紀)
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歌から見ると、危険が待ちかまへて居たのも知らないで、ひどい目に遭うた自分の愚かさを、自嘲する様な発想と気分とを持つてゐる。依網《ヨサミ》の地の池から、池にある物に結びつけて、色々なものゝ水の下にあつたものも知らずに居た。さうして、刺のある水草にさゝつたと言ふのである。此歌も何だか、ある部分の脱落を思はせる姿である。
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石上《イスノカミ》 布留を過ぎて、薦枕《コモマクラ》 高橋過ぎ、物さはに 大宅《オホヤケ》過ぎ、春日《ハルヒ》の 春日《カスガ》を過ぎ、つまごもる 小佐保《ヲサホ》を過ぎ、
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平群《ヘグリ》[#(ノ)]鮪《シビ》の愛人かげ媛[#「かげ媛」に傍線]が、鮪の伐たれたのを悲しんで作つた歌の大部分をなして居るこれだけの文章は、主題に入らないで、経過した道筋を述べたてゝゐるだけである。さうしてやつと眼目の考へが熟して来て、
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たま[#「たま」に「(つゞき)」の注記]笥《ケ》には飯さへ盛り、たま※[#「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1−88−72]《モヒ》に水さへ盛り、
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と対句でぐづ/″\して後、
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哭きそぼち行くも。かげ媛 あはれ(かげ媛――日本紀)
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と、極めて簡単な解決に落着してゐる。この中の「かげ媛あはれ」は、囃し語として這入つたもので、元来の文句は「哭きそぼち行くも」で終つて居るのである。これも実際は、かげ媛[#「かげ媛」に傍線]の自作ではなくて、平群氏に関聯した叙事詩の中の断篇か、或は他の人の唯の葬式の歌かゞ、かうした伝説を伴ふやうになつたのであらう。ともかくも、口に任せて述べて行く歌の極端な一例である。似た例がいはの媛[#「いはの媛」に傍線]にもある。
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つぎねふや 山城川を 宮のぼり 我が溯れば、あをによし 奈良を過ぎ、をだて 倭邑《ヤマト》を過ぎ、我が見が欲《ホ》し国は、葛城《カツラギ》 高宮 我家《ワギヘ》のあたり(いはの媛――記)
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前と違ふ点は、叙事に終止しないで、抒情に落してゐる所だけである。おなじ時に出来たと言ふ今一首は、道行きぶりの中に、稍複雑味が加つて居る。
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つぎねふや 山城川を 川溯り 我がのぼれば、川の辺に生ひ立てる烏草樹《サシブ》を。烏草樹《サシブ》の樹 其《シ》が下《シタ》に生ひ立てる葉広五|百《ユ》つ真椿《マツバキ》。其《シ》が花の 照りいまし 其《シ》が葉の 張《ヒロ》りいますは 大君ろかも(同)
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此歌は、日本紀の方の伝へは、断篇である。此古事記の方で見ると、道行きぶりから転化して物尽しに入つて居る。道行きぶりも畢竟は地名を並べる物尽しに過ぎない。併し既に言うたとほり尚、神群行の神歌の影響が加つて、物尽しの外に日本の歌謡の一つの型を作つたのである。

     四

物尽しの、古代に於て、一つの発達した形になつたものは「読歌《ヨミウタ》」である。此は、節《フシ》まはしが少くて、朗読調に近いからだと説かれて来たのは、謂はれのないことである。さうした謡ひ方は、古代から現今まで言ふ所の「かたる」と言ふ用語例に入るのである。「よむ」の古い意義は、数へると言ふ所にある。つまりは、目に見える物一つ/\に、洩らさず歌詞を託けて行く歌を言ふので、後には変化して、武家時代の初めからは「言ひ立て」と称せられてゐる物の元となつたのである。今の万歳の柱ぼめ・屋敷ぼめの如く、そこにある物一々に関聯して祝言を述べ立てる歌であらうと思ふ。ほぎ[#「ほぎ」に傍線]歌の一種、建て物に関したものが、後には、替へ歌などが出来て、読み歌の特徴を失ひ、唯、調子だけの名となつたが、尚「言ひ立て」風の文句を謡うたものと思はれる。
ほぎ[#「ほぎ」に傍線]の詞には、歌になつたものと、やゝ語りに近いものとがあつた。前者がほぎ[#「ほぎ」に傍線]歌であつて、後者は寿詞《ヨゴト》と称せられた。寿詞は、祝詞の古い形を言ふので、発想法から、文章の目的とする相手まで、祝詞とは違うて居る。よごと[#「よごと」に傍線]は生命の詞、即「齢詞《ヨゴト》」の義が元である。
寿詞の中、重要なものは、家に関するものである。新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]或は、在来の建て物に対しても行はれて、建て物と、主人の生命・健康とを聯絡させて、両方を同時に祝福する口頭の文章である。柱や梁や壁茅・椽・牀・寝処などの動揺・破損のないことを、家のあるじの健康のしるし[#「しるし」に傍線]とする様な発想を採る所から、更に両方同時に述べる数主並叙法が発生した。だから、天子崩御前の歌に、建て物の棟から垂れた綱を以て、直に命の長いしるし[#「しるし」に傍線]と見る寿詞の考へ方に慣れて、屋の棟を見ると、綱の垂れて居る如く、天子の生命も「天たらしたり」と祝言する様な変な表現をしてゐる。天智の御代のことである。
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天の原 ふり放《サ》け見れば、大君の御命《ミイノチ》は長く、天たらしたり(倭媛皇后――万葉巻二)
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此表現の不足も寿詞に馴れた当時の人には、よく訣つたのであらう。
寿詞は、常に譬喩風に家のあるじの健康をほぐ[#「ほぐ」に傍線]が、同時に建て物のほぎ言[#「ほぎ言」に傍線]ともなるのである。かうした不思議な発想法から、象徴式の表現法も生れ、隠喩も発生した。勿論直喩法も発達した。併し、概して言へば直喩法は、後飛鳥期にもあつたが、藤原期の柿本人麻呂の力が、主としてはたらいて、完成した様である。
隠喩及び象徴法は、寿詞の数主並叙法から発生したと言うてよいが、尚他にも誘因があるとすれば、前の出まかせの叙述法が其である。此並叙法を寿詞が採る様になつた根本理由は、今は述べない。日本文学の発生を論ずる文章で、近く発表する心ぐみである。
顕宗天皇の伝説で見ても、室寿詞が一面享楽的な文章を派生してゐる様子が見える。神に扮した人が、神の資格に於て、自らも然う信じて新室に臨んだ風が、段々忘れられて、飛鳥朝の大和辺では、其家よりも高い階級と見られる人が賓客《マレビト》として迎へられ、舞人の舞を見、謡を聞く事は勿論、舞人なる処女を一夜の妻に所望して、その家に泊つた事は、允恭紀に見える事実である。新室のほかひ[#「ほかひ」に傍線](ほぎ――祝福)が、段々「宴《ウタゲ》」と言ふ習俗を分化した元となつた事は、此ほか万葉集などを見ても知れる。
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新むろを踏《フム》静子《シヅメコ》(?)が 手玉ならすも。玉の如《ゴト》 照りたる君を 内にと、まをせ(万葉集巻十一)
新室の壁草刈りに、いましたまはね。草の如 嫋《ヨラ》へる処女は、君がまに/\(同)
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此旋頭歌は、もはや厳粛一方でなく、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の後に、直会《ナホラヒ》風のくづれ[#「くづれ」に傍点]の享楽の歌が即座に、謡はれた姿を留めて居るものではないか。歌垣のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]に練り上げた頓才から、室の内外の模様に出任せに語をつけて、家あるじの祝福、賓客《マレビト》の讃美などの、類型式ながら、其場の興を呼ぶ事の出来る文句が謡はれる風が出来て来た。其が家を離れない間は、単なる叙景詩の芽生えに過ぎないといふ点では、道行きぶりや、矚目発想法や、物尽しから大《タイ》して離れることが出来ないばかりか、性的な興味を中心にする傾向に向ひさへしたらう。処が古代人の家屋に対する信仰や習癖が、特殊な機会に、古くから外界に向いてゐた眼を逸らす事なく、譬喩化する事なく、人事以外の物を
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