・くろうと[#「くろうと」に傍点]から受けて来た歌の大方は、大抵は叙事脈に属する謡ひ物で、誇張の多い表現に過ぎないのである。
東歌の如きも、又誰にも素朴な物と言ふ予期を以て向はせる民謡(小唄)集でも、窮境に居て発した情熱と見えるのは、実は叙事詩の類型に入つた、性愛のやるせなさをまぎらはす為に、口ずさみ/\した劇的構造のまじつた空想歌に過ぎないものが多い。作者の歌を作つた境涯を歌から想像して見ると、其叫びの洩れるはずのない物が多い。其多く製作せられる場所は、歌垣の庭の頓才問答・誇張表現・性欲から来る詭計・あげあしとり[#「あげあしとり」に傍線]・底意以上のじやれあひ[#「じやれあひ」に傍点]などが、実感を超越して、一見激越した情熱にうたれる様な物を生み出させたのである。尤、さうした物の出来るのも、社会の底の生活力が、荒くて、強かつた時勢の現れと言ふ点だけに、尚古家の予期する万葉人の強い生命を認める事は出来る。たゞさうした成立に伴ふ表現法は、古代芸術に関した鑑賞法を、根柢から換へて見ねばならない事を思はせるのである。
九
人麻呂の作物に静かで細かい心境のみが見えるのは、人麻呂が時流を遥かに抜け出て、奈良末期の家持の短歌に現れた心境に接続してゐる処である。其程其点でも、知らず識らずにも、長い将来に対して、手が届いてゐた事を示してゐる。人麻呂の達した此心境は、客観態度が完成しかけて来た為だ、と思ふのが正しいであらう。此静かな方面を更に展開したのは、高市黒人である。近江の旧都を過ぎる歌にしても、人麻呂のも短歌は優れて居るが、黒人の歌の静かに自分の心を見てゐるのには及ばない。
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漣《サヽナミ》の滋賀の辛崎、幸《サキ》くあれど、大宮人の船待ちかねつ(人麻呂――万葉巻一)
漣の滋賀の大曲《オホワダ》、澱《ヨド》むとも、昔の人に復《マタ》も遭はめやも(同)
古の人に我あれや、漣の古き宮処《ミヤコ》を見れば 悲しも(黒人――万葉巻一)
漣の国《クニ》つ御神《ミカミ》の心荒《ウラサ》びて、荒れたる宮処《ミヤコ》見れば 悲しも(同)
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黒人の歌は、伝統を脱した考へ方を対象から抽き出してゐる。後の方は叙事風に見えるが、誰もまだ歌にした事のない時に、静かな心で、史実に対して、非難も讃美も顕さないで、歌ひこなして居る。没主観の芸道を会得
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