には、既に意識に上つて来て居た。さうして抒情詩が、容易にかけあひ[#「かけあひ」に傍線]・頓才・感情誇張・劇的刺戟を去る事の出来ないで居る間に、人麻呂の大才を以てしても、純恋愛詩・抒情詩の本格を握ることの出来なかつた間に、既にまづ高市黒人の観照態度を具備した叙景詩が生れた。さうして、直に続いて、山部赤人が現れて、叙景詩の本式なものを示して居る。
柿本人麻呂も既に、次の時代の暗示者たる才能の上から、意識はしなかつたらうけれども、宴歌又は旅の歌に、叙景の真髄を把握したものを作つて居た。唯意識の有無を文学の価値判断に置く時は、人麻呂はまだ渾沌時代にあつて、大きな価値をつける訣には行かない。
唯言ふべきは、離宮行幸が、全く支那の宮廷生活を模した宴遊であつた事だ。持統天皇の如きは、如何に半日もかゝらない道のりとは言へ、吉野の宮へは、日本紀に載せたゞけでも、驚く程しつきりなく出かけられた。そして、都からやつと半みちの飛鳥の神丘へ行かれた時も、人麻呂は帝王を頌する支那文学模倣とも言へば言はれさうな歌を、こと/″\しく作つてゐる。
宴遊の中、日がへりの旅にも、行つた先で宴歌を作るのは、其行事が外国の写しだけに、歌詞も支那を学んで、小屋をさへ造らぬにかゝはらず、宴歌がやはり歌はれる事になつたのだ。つまり、日本の遠来神を迎へた式が賓客歓待の風に変つても、古義だけは残つて居たのを、すつかり変へて、新しい宴会の様式がはじめられた事になる。此が日本のうたげ[#「うたげ」に傍線]の中途の暫らくの気まぐれな変化で、後には又元の方法に近く戻つて来た様である。でも其間にやはり、古い意義を存して、天子外出の時の方法としての警蹕・反閇《ヘンバイ》の形を、少しく大きくして、新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]のない宴遊をしたものと考へられぬでもない。

     八

日本に於て、最危い支那化の熱の昂まつてゐたのは、飛鳥時代の前後を通じての事で、殊に末に行く程激しさを加へた。中途に調和者の姿をとられた天武天皇も、実はやはり時代病から超越出来なかつた。唯其が内面に向うて行つた為に、反動運動者には歓ばれ、世間の文化も実際に高まつて来た。だから、此天子の世の文化施設の細やかな所まで、手の届いて居る事も、基く所を思はせて、有効でありさうな事に、着実な方針が秩序立つて現れて居る。
藤原の都は、国力の充実せぬのに、先
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