である。だから、書かぬ先から、餘計な事だと言はれさうな氣おくれがする。
まづ第一に、私の心の上の重ね寫眞は、大した問題にするがものはない。もつと/\重大なのは、日本人の持つて來た、いろ/\な知識の映像の、重つて燒きつけられて來た民俗である。其から其間を縫ふて、尤らしい儀式・信仰にしあげる爲に、民俗々々にはたらいた内存、外來の高等な學の智慧である。
當麻信仰には、妙に不思議な尼や、何ともわからぬ化身の人が出る。謠の「當麻」にも、又其と一向關係もないらしいもので謂つても、「朝顏の露の宮」、あれなどにも、やはり化尼《ケニ》が出て來る。曼陀羅縁起以來の繋りあひらしい。私の場合も、語部の姥が、後に化尼の役になつて來てゐる。此などは、確かに意識して書いたやうに覺えてゐる。その發端に何といふことなしに、ふつと結びついて來たのだから、やはりさう言ふことになるかも知れぬ。が、人によつては、時がたてば私自身にも、私の無意識から出た化尼として、原因をこゝに求めさうな氣がする。それはともかくも、實際そんな風に計畫して書いて行くと、歴史小説といふものは、合理臭い書き物から、一歩も出ぬものになつてしまふ。
岡本綺堂の史劇といふものは、歴史の筋は追うてゐても、如何にも、それ自體、微弱感を起させる歴史であつた。其代りに、讀本作者のした樣な、史實或は傳説などの合理化を、行つて見せた。その同じ程度の知識は、多くの見物にも豫期出來るものであつて、さうした人達は、見ると同時に、作者の計畫を納得するといふ風に出來てゐた。其が綺堂の、新歌舞伎狂言の行はれた理由の一つでもあつた。何しろ、作者と、讀者見物と竝行してゐるといふ事は、大衆を相手にする場合には、餘程強みになるらしい。その書き物も、其が歴史小説と見られる側には十分、讀本作者や、戲曲における岡本綺堂が顏を出して居る。だが、私共の書いた物は、歴史に若干關係あるやうに見えようが、謂はゞ近代小説である。併し、舞臺を歴史にとつたゞけの、近代小説といふのでもない。近代觀に映じた、ある時期の古代生活とでもいふものであらう。
老語部を登場させたのは、何も之を出した方が、讀者の知識を利用することが出來るからと言ふのではない。殆無意識に出て來る類型と擇ぶ所のない程度で、化尼になる前型らしいものでも感じて貰へればよいと思うたのだ。こんな事をわざ/\書いておくのは、此後に出て來る數ヶ條の潛在するものゝはたらきと、自分自身混亂せぬやう、自分に言ひ聞かせるやうな氣持ちでする譯である。
稱讃淨土佛|攝受經《セフジユギヤウ》を、姫が讀んで居たとしたのは、後に出て來る當麻曼陀羅の説明に役立てようと言ふ考へなどはちつともなかつた。唯、この時代によく讀誦せられ、寫經せられた簡易な經文であつたと言ふのと、一つは有名な遺物があるからである。ところが、此經は、奈良朝だけのことではなかつた。平安の京になつても、慧心僧都の根本信念は、此經から來てゐると思はれるのである。たゞ、傳説だけの話では、なかつたのである。
此聖生れは、大和葛上郡―北葛城郡―當麻村といふが、委しくは首邑當麻を離るゝこと、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであつたらしい。ともかくも、日夕二上山の姿を仰ぐ程、頃合ひな距離の土地で、成人したのは事實であつた。
こゝに豫め言うておきたいことがある。表題は如何ともあれ、私は別に、山越しの彌陀の圖の成立史を考へようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て來る「死者」の俤が、藤原南家郎女の目に、阿彌陀佛とも言ふべき端嚴微妙な姿と現じたと言ふ空想の據り所を、聖衆來迎圖に出たものだと言はうとするのでもない。そんなもの/\しい企ては、最初から、しても居ぬ。たゞ山越しの彌陀像や、彼岸中日の日想觀の風習が、日本固有のものとして、深く佛者の懷に採り入れられて來たことが、ちつとでも訣つて貰へれば、と考へてゐた。
四天王寺西門は、昔から謂はれてゐる、極樂東門に向つてゐるところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拜む人の群集《クンジユ》したこと、凡七百年ほどの歴史を經て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤ふる西の宮に向つて、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想觀なら、「弱法師」の上にも見えてゐた。舞臺を何とも謂へぬ情趣に整へてゐると共に、梅の花咲き散る頃の優《イウ》なる季節感が靡きかゝつてゐる。
しかも尚、四天王寺には、古くは、日想觀往生と謂はれる風習があつて、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行つたのであつた。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海と言うた。觀音の淨土に往生する意味であつて、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々たる海波を漕ぎきつて到り著く、と信じてゐたのがあはれである。一族と別れて、南海に身を潛めた平維盛が最期も、此渡海の道であつたといふ。
日想觀もやはり、其と同じ、必極樂東門に達するものと信じて、謂はゞ法悦からした入水死《ジユスイシ》である。そこまで信仰におひつめられたと言ふよりも寧、自ら靈《タマ》のよるべをつきとめて、そこに立ち到つたのだと言ふ外はない。
さう言ふことが出來るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘《オビ》かれたやうになつて、大空の日《ヒ》を追うて歩いた人たちがあつたものである。
昔と言ふばかりで、何時と時をさすことは出來ぬが、何か、春と秋との眞中頃に、日祀《ヒマツ》りをする風習が行はれてゐて、日の出から日の入りまで、日を迎へ、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憇ふ信仰があつたことだけは、確かでもあり又事實でもあつた。さうして其なごりが、今も消えきらずにゐる。日迎へ日送りと言ふのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行はれてゐる風が、その一つである。而も其間に朝晝夕と三度まで、米を供へて日を拜むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日參りといふのは、此日早天に東方に當る宮や、寺又は、地藏尊などに參つて、日の出を迎へ、其から順に南を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて西の方へ行き、日の入りを送つて後、還つて來る。これを日《ヒ》の伴《トモ》と謂つてゐる。宮津邊では、日天樣《ニツテンサマ》の御伴《オトモ》と稱して、以前は同樣の行事があつたが、其は、彼岸の中日にすることになつてゐた。紀伊の那智郡では唯おともと謂ふ……。かうある。
何の訣とも知らず、社日や、彼岸には、女がかう言ふ行《ギヤウ》の樣なことをした、又現に、してもゐるのである。年の寄つた婆さまたちが主となつて、稀に若い女たちがまじるやうになつたのは、單に舊習を守る人のみがするだけになつたと言ふことで、昔は若い女たちが却て、中心だつたのだらうと思はれる。現にこの風習と、一緒にしてしまつて居る地方の多い「山ごもり」「野遊び」の爲來りは、大抵娘盛り・女盛りの人々が、中心になつてゐるのである。順禮等と言つて、幾村里かけて巡拜して歩くことを春の行事とした、北九州の爲來りも、やはり嫁入り前の娘のすることであつた。鳥居を幾つ綴つて來るとか言つて、菜の花桃の花のちら/\する野山を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた、風情ある女の年中行事も、今は消え方になつてゐる。
そんなに遠くは行かぬ樣に見えた「山ごもり」「野あそび」にも、一部はやはり、一个處に集り、物忌みするばかりでなく、我が里遙かに離れて、短い日數の旅をすると謂ふ意味も含まつてゐたのである。かう言ふ「女の旅」の日の、以前はあつたが、今はもう、極めて微かな遺風になつてしまつたのである。
併し日本の近代の物語の上では、此仄かな記憶がとりあげられて、出來れば明らかにしようと言ふ心が、よほど大きくひろがつて出て來てゐる。旅路の女の數々の辛苦の物語が、これである。尋ね求める人に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りあつても、其とは知らぬあはれな筋立て[#「筋立て」に傍点]を含むことが、此「女の旅」の物語の條件に備つてしまうたやうである。
女が、盲目でなければ、尋ねる人の方がさうであつたり、兩眼すゞやかであつても行きちがひ、尋ねあてゝ居ながら心づかずにゐたりする。何やら我々には想像も出來ぬ理由があつて、日を祀る修道人が、目眩《メクルメ》く光りに馴れて、現《ウツ》し世の明を失つたと言ふ風の考へ方があつたものではないか知らん。
私どもの書いた物語にも、彼岸中日の入り日を拜んで居た郎女が、何時か自《オノヅカ》ら遠旅におびかれ出る形が出て居るのに氣づいて、思ひがけぬ事の驚きを、此ごろ新にしたところである。
山越しの阿彌陀像の殘るものは、新舊を數へれば、藝術上の逸品と見られるものだけでも、相當の數にはなるだらう。が、悉く所傳通り、凡慧心僧都以後の物ばかりと思はれて、優れた作もありながら、何となく、氣品や、風格において高い所が缺けてゐるやうに感じられる。唯如何にも、空想に富んだ點は懷しいと言へるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好に、宗教畫につきものゝ俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言つても、金戒光明寺のは、傳來正しいらしいだけに、他の山越し像を壓する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあつて、彫刻に見るやうな堅い線が出て來てゐる。兩手の親指・人さし指に五色の絲らしいものが纒はれてゐる。此は所謂「善の綱」に當るもので、此圖の極めて實用式な目的で、描かれたことが思はれる。唯この兩手の指から、此畫の美しさが、俄かに陷落してしまふ氣がする。其ほど救ひ難い功利性を示してゐる。此圖の上に押した色紙に「弟子天台僧源信。正暦甲午歳冬十二月…」と題して七言律一首が續けられてゐる。其中に「…光芒忽自[#二]眉間[#一]照。音樂新發耳界驚。永別[#二]故山[#一]秋月送。遙望[#二]淨土[#一]夜雲迎」の句がある。故山と言ふのは、淨土を斥してゐるものと思へるが、尚意の重複するものが示されて、慧心院の故郷、二上山の麓を言うてゐることにもなりさうだ。
此圖の出來た動機が、此詩に示されてゐるのだらうから、我々はもつと、「故山」に執して考へてよいだらう。淨土を言ひ乍ら同時に、大和當麻を思うてゐると見てさし支へはない。此圖は唯上の題詞から源信僧都の作と見るのであるが、畫風からして一條天皇代の物とすることは、疑はれて來てゐる。さすれば色紙も、慧心作を後に録したもの、と見る外はないやうだ。
一體、山越し阿彌陀像は比叡の横川《ヨガハ》で、僧都自ら感得したものと傳へられてゐる。眞作の存せぬ以上、この傳へも信じることはむつかしいが、まづ[#「まづ」に傍点]凡さう言ふことのありさうな前後の事情である。圖は眞作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思はせてゐるといふことは出來る。横川において感得した相好とすれば、三尊佛の背景に當るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が豫想せられてゐるもの、と見てよいだらう。聖衆來迎圖以來背景の大和繪風な構想が、すべてさう言ふ意圖を持つてゐるのだから。併し若し更に、慧心院眞作の山越し圖があり、又此が僧都作であつたとすれば、こんなことも謂へぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に當る空と、漣とを想像せしめる背景は、實はさうではなかつた。
禪林寺のは、製作動機から見れば、稍後出を思はせる發展がある。併し畫風から見て、金戒光明寺のよりも、幾分古いものと、凡判斷せられて居る。さすれば兩者とも、各今少し先出の畫像があり、其型の上に出て來たものなることが想像出來る。此方は、金戒光明寺の圖樣が固定する一方、その以前に既に變化を生じて居たものゝ分出と見ることが出來る。但中尊の相好は、金戒光明寺のよりも、粗朴であり、而も線の柔軟はあるが、脇士・梵天・帝釋・四天王等の配置が淨土曼陀羅風といへば謂へるが、後代風の感じを湛へてゐる。其を除けると、中尊の態樣、殊に山の端に出た、胸臆のづつしりした重さは如何にも感覺を通して受けた、彌陀らしさが十分に出てゐて、金戒光明寺の作りつけた樣なのとは違ふ。其に山
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