中日の入り日を拜んで居た郎女が、何時か自《オノヅカ》ら遠旅におびかれ出る形が出て居るのに氣づいて、思ひがけぬ事の驚きを、此ごろ新にしたところである。
山越しの阿彌陀像の殘るものは、新舊を數へれば、藝術上の逸品と見られるものだけでも、相當の數にはなるだらう。が、悉く所傳通り、凡慧心僧都以後の物ばかりと思はれて、優れた作もありながら、何となく、氣品や、風格において高い所が缺けてゐるやうに感じられる。唯如何にも、空想に富んだ點は懷しいと言へるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好に、宗教畫につきものゝ俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言つても、金戒光明寺のは、傳來正しいらしいだけに、他の山越し像を壓する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあつて、彫刻に見るやうな堅い線が出て來てゐる。兩手の親指・人さし指に五色の絲らしいものが纒はれてゐる。此は所謂「善の綱」に當るもので、此圖の極めて實用式な目的で、描かれたことが思はれる。唯この兩手の指から、此畫の美しさが、俄かに陷落してしまふ氣がする。其ほど救ひ難い功利性を示してゐる。此圖の上に押した色紙に「弟子天台僧
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