、やつとつかむことが出來るのではないかと思ふ。
大串純夫さんに、來迎藝術論(國華)と言ふ極めて甘美な暗示に富んだ論文があつて、この稿の中途に、當麻寺の松村實照師に示されて、はじめて知つたのだが、反省の機會が與へられて、感謝してゐる。此には、山越し像と、來迎圖との關聯、來迎圖と御迎講又は來迎講と稱すべきものとの脈絡を説いて、中世の貴族庶民に渉る宗教的情熱の豐けさが書かれてゐる。唯一點、私が之に加へるなら、大串さんのひきおろした畫因――宗教演劇にも近い迎へ講の儀式の、藝術化と言ふ所から、更にずつと、卸して考へることである。
山越し像において、新しいほど、御迎講の姿が、畫因に認められるのに、古いほど却て來迎圖の要素たる聖衆が少くなつて、唯の三尊佛と言ふより、其すら脇士なるが故に伴うてゐるだけで、眼目は中尊にあると言ふ傾向がはつきり見えるのは、其が唯阿彌陀三尊に止るなら、問題はない。阿彌陀像には、自ら約束として、兩脇士の隨ふものなのだから。ところが、之に附隨して山の端の外輪が胸のあたりまで掩うてゐることになると、さう簡單には片づかぬ。常に來迎が山上から、たなびく紫雲に乘つて行はれ易いと考へたにしても、畫面は必しも、其ばかりではない。
慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩來迎圖にしても、興福院の來迎圖にしても、知恩院の阿彌陀十體像にしても、皆山から來向ふ迅雲に乘つた姿ではない。だから自ら、山は附隨して來るであらうが、必しも、最初からの必須條件ではないといへる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿彌陀二十五菩薩來迎像の樣な、寫實風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる樣になるのである。
結局彌陀三尊圖に、山の端をかき添へ、下體を隱して居る點が、特殊なのである。謂はゞ一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの淨土變相圖としての條件を、持つて來る訣なのである。即、日本式の彌陀淨土變として、山越し像が成立したのである。こゝに傳説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての傳へは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言はれてゐるが、其に、疑念を持つことが出來る。
觀經曼陀羅の中にも、内外陣左邊右邊のとり扱ひについて、種々の相違はあるやうだが、定善義十三觀の中、最重く見られてゐるのが、日想觀である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人あり、婢女一人之に侍立し、
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