た平維盛が最期も、此渡海の道であつたといふ。
日想觀もやはり、其と同じ、必極樂東門に達するものと信じて、謂はゞ法悦からした入水死《ジユスイシ》である。そこまで信仰におひつめられたと言ふよりも寧、自ら靈《タマ》のよるべをつきとめて、そこに立ち到つたのだと言ふ外はない。
さう言ふことが出來るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘《オビ》かれたやうになつて、大空の日《ヒ》を追うて歩いた人たちがあつたものである。
昔と言ふばかりで、何時と時をさすことは出來ぬが、何か、春と秋との眞中頃に、日祀《ヒマツ》りをする風習が行はれてゐて、日の出から日の入りまで、日を迎へ、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憇ふ信仰があつたことだけは、確かでもあり又事實でもあつた。さうして其なごりが、今も消えきらずにゐる。日迎へ日送りと言ふのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行はれてゐる風が、その一つである。而も其間に朝晝夕と三度まで、米を供へて日を拜むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日參りといふのは、此日早天に東方に當る宮や、寺又は、地藏尊などに參つて、日の出を迎へ、其から順に南を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて西の方へ行き、日の入りを送つて後、還つて來る。これを日《ヒ》の伴《トモ》と謂つてゐる。宮津邊では、日天樣《ニツテンサマ》の御伴《オトモ》と稱して、以前は同樣の行事があつたが、其は、彼岸の中日にすることになつてゐた。紀伊の那智郡では唯おともと謂ふ……。かうある。
何の訣とも知らず、社日や、彼岸には、女がかう言ふ行《ギヤウ》の樣なことをした、又現に、してもゐるのである。年の寄つた婆さまたちが主となつて、稀に若い女たちがまじるやうになつたのは、單に舊習を守る人のみがするだけになつたと言ふことで、昔は若い女たちが却て、中心だつたのだらうと思はれる。現にこの風習と、一緒にしてしまつて居る地方の多い「山ごもり」「野遊び」の爲來りは、大抵娘盛り・女盛りの人々が、中心になつてゐるのである。順禮等と言つて、幾村里かけて巡拜して歩くことを春の行事とした、北九州の爲來りも、やはり嫁入り前の娘のすることであつた。鳥居を幾つ綴つて來るとか言つて、菜の花桃の花のちら/\する野山を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた、風情
前へ 次へ
全17ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング