心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院《こんぶいん》の来迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必須条件でないといえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。
結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの浄土変相図としての条件を、持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
観経曼陀羅の中にも、内外陣左辺右辺のとり扱いについて、種々の相違はあるようだが、定善義十三観の中、最重く見られているのが、日想観である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人《いだいけぶにん》あり、婢女一人之に侍立し、樹上に三色の雲かかり、正中上方一線の霞の下に円日あり、下に海中島ある構図である。当麻の物では、外陣左辺十三段のはじめにある。即、西方に沈もうとする日を、観じている所なのだ。浄土を観念するには、この日想観が、緊密妥当な方法であると考えたのが、中世念仏の徒の信仰であった。観無量寿経に、「汝及び衆生|応《まさ》に心を専らにし、念を一処に繋けて、西方を想ふべし。云はく、何が想をなすや。凡想をなすとは、一切の衆生、生盲に非るよりは、目有る徒、皆日没を見よ。当に想念を起し、正坐し西に向ひて、日を諦《あき》らかに観じ、心を堅く住せしめ、想を専らにして移らざれ。日の歿《ぼつ》せむとするや、形、鼓を懸けたる如きを見るべし。既に見|已《を》へば目を閉開するも、皆明了ならしめよ。是を日想となし、名づけて、初観といふ。」そうして水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観と言う風に続くのである。ところが、此初観に先行している画面に、序分義化前縁の段がある。王舎城耆闍崛山に、仏|大比丘《おおびく》衆一千二百五十人及び許多《あまた》の聖衆と共に住んだ様を図したものである。右辺左辺と、位置を別にしているが、順序として、定善義第一日想観
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