かと思ふ。強ひて、曼陀羅の中から、山越し像の画因を引き出さうとすれば、これがまづ、或暗示を含んでゐるとは言へよう。雲湧き立つ山下に、仏を囲んで、聖衆・大比丘のある所である。山の此方にあるのが違ふのだが、此違ひは大きな違ひである。日想観及び次の水想観には、たゞ韋提希夫人観念の姿を描いたのみであるが、其より先は、如来・菩薩の示現を描いてゐる。日想観において観じ得た如来の姿を描くとすれば、西方海中に没しようとする懸鼓の如き日輪を、心《シン》にして写し出す外はない。さすれば、水平線に半身を顕し、日輪を光背とした三尊を描いたであらう。だが、此は単に私どもの空想であつて、いまだ之を画因にした像を見ぬのである。併しながら、今も尚、彼岸中日海中にくるめき沈む日を拝する人々は、――即庶人の日想観を行ずる者――落日の車輪の如く廻転し、三尊示現する如く、日輪三体に分れて見えると言つて、拝みに出るのである。
此日、来迎仏と観ずる日輪の在る所に行き向へば、必その迎へを得て、西方浄土に往生することになる、と考へたのは当然過ぎる信仰である。此は実践する所の習俗として残つてゐて、而も、伝説化・芸術化することなくして、
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