り著く、と信じてゐたのがあはれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平維盛が最期も、此渡海の道であつたといふ。
日想観もやはり、其と同じ、必極楽東門に達するものと信じて、謂はゞ法悦からした入水死《ジユスヰシ》である。そこまで信仰におひつめられたと言ふよりも寧、自ら霊《タマ》のよるべをつきとめて、そこに立ち到つたのだと言ふ外はない。
さう言ふことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘《オビ》かれたやうになつて、大空の日《ヒ》を追うて歩いた人たちがあつたものである。
昔と言ふばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀《ヒマツ》りをする風習が行はれてゐて、日の出から日の入りまで、日を迎へ、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩ふ信仰があつたことだけは、確かでもあり又事実でもあつた。さうして其なごりが、今も消えきらずにゐる。日迎へ日送りと言ふのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行はれてゐる風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供へて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗語彙)又おなじ語彙に、丹波中郡
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