べきものは整理しながら、やはり昔の象徴詩家が古語によせた情熱と同じものを、今の詩壇の人々の詩語や、文体の上に散見する事が出来る。象徴的な効果のある、言わばてま[#「てま」に傍線]の代表とも言うべきものだから、それを離れては作物が意味を失うと考えられているのである。私どもが詩を読み始めてから、そうした幾百千の語を送迎したか、数え立てる事も出来ない。又作家自身も、それ程までの効果を考えずに、ただの言葉に対する情熱から使い捨てたと言うものも多かった。もし啓蒙的《けいもうてき》な新詩|語彙《ごい》と言うようなものが出来れば、そういう言葉を多く見出し、それらの言葉の中から、明治以後の詩人がどう言う言葉を好み、どういう傾向に思想を寄せていたかと言う事が、手取早く見られると思う。
久しく用いられている語を少しあげてみると、「しじま」これに、沈黙・静寂など漢字を宛てて天地の無言・絶対の寂寥《せきりょう》など言った思想的な内容までも持たせているが、われわれは詩の読者として何度この言葉にゆき合うたか。併し辞書などには、それに似た解釈をしているとしても、其は作家が辞書から得た知識だからである。古い用法では、むしろ宗教的な一種の儀礼である。無言の行とも言うべき事であり、時としては黙戯を意味してもいる。併しそう言う私自身すらも、沈黙・静寂などの方が正しい第一義である様に感じる程、詩には使い古されて来た。
「あこがれ」この言葉も明治の詩以来古典の用語例が拡げて使われた。これは「あくがれ」という形もあるのであるが、詩語として承《う》け渡した詩人たちは「こがる」と言う焦心を表す語に、接頭語あ[#「あ」に傍線]のついたものと感じた為に、「あこがれ」の方ばかり使った。これは、王朝に著しく見える語で、霊魂の遊離するを言った。自然、それほどひどく物思いする場合にも使っている。だから、詩語としての用法は恋愛的に柔かになっているが、特殊な意味を失っている。憧憬という宛て字は、半ば当っている。
象徴派風の表現が勢を得てから、「えやみ」(疫)だとか「すゆ」(饐《す》ゆ)など言った辛い聯想《れんそう》を持った言葉が始終使われた。そうかと思うと、近代感覚を以て、古語にない言葉を作ったのもある。運命、宿命などに「さだめ」と言う全く一度も使った事の無い語を創造した。西洋的な情熱を表す必要から、接吻なども、国語で表そうとし
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