父も、そうした物は、或は、おれよりも嗜《す》きだったかも知れぬほどだが、もっと物に執著《しゅうじゃく》が深かった。現に、大伴の家の行く末の事なども、父はあれまで、心を悩まして居た。おれも考えれば、たまらなくなって来る。其で、氏人を集めて喩《さと》したり、歌を作って訓諭して見たりする。だがそうした後の気持ちの爽《さわ》やかさは、どうしたことだ。洗い去った様に、心が、すっとしてしまうのだった。まるで、初めから家の事など考えて居なかった、とおなじすがすがしい心になってしまう。
あきらめと言う事を、知らなかった人ばかりではないか。……昔物語りに語られる神でも、人でも、傑《すぐ》れた、と伝えられる限りの方々は――。それに、おれはどうしてこうだろう。
家持の心は併し、こんなに悔恨に似た心持ちに沈んで居るに繋《つなが》らず、段々気にかかるものが、薄らぎ出して来ている。
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ほう これは、京極《きょうはて》まで来た。
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朱雀大路も、ここまで来ると、縦横に通る地割りの太い路筋ばかりが、白々として居て、どの区画にも区画にも、家は建って居ない。去年の草の立ち枯れたのと、今年生えて稍《やや》茎を立て初めたのとがまじりあって、屋敷地から喰《は》み出し、道の土までも延びて居る。
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こんな家が――。
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驚いたことは、そんな草原の中に、唯一つ大きな構えの家が、建ちかかって居る。遅い朝を、もう余程、今日の為事《しごと》に這入《はい》ったらしい木の道[#「木の道」に傍点]の者たちが、骨組みばかりの家の中で、立ちはたらいて居るのが見える。家の建たぬ前に、既に屋敷廻りの地形《じぎょう》が出来て、見た目にもさっぱりと、垣をとり廻して居る。土を積んで、石に代えた垣、此頃言い出した築土垣《つきひじがき》というのは、此だな、と思って、じっと目をつけて居た。見る見る、そうした新しい好尚《このみ》のおもしろさが、家持の心を奪うてしまった。
築土垣の処々に、きりあけた口があって、其に、門が出来て居た。そうして、其処から、頻《しき》りに人が繋っては出て来て、石を曳《ひ》く。木を搬《も》つ。土を搬《はこ》び入れる。重苦しい石城《しき》。懐しい昔構え。今も、家持のなくなしたくなく考えている屋敷廻りの石垣が、思うてもたまらぬ重圧となって、彼の胸に、もたれかかって来るのを感じた。
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おれには、だが、この築土垣を択《と》ることが出来ぬ。
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家持の乗馬《じょうめ》は再、憂鬱《ゆううつ》に閉された主人を背に、引き返して、五条まで上って来た。此辺から、右京の方へ折れこんで、坊角《まちかど》を廻りくねりして行く様子は、此主人に馴れた資人たちにも、胸の測られぬ気を起させた。二人は、時々顔を見合せ、目くばせをしながら尚、了解が出来ぬ、と言うような表情を交しかわし、馬の後を走って行く。
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こんなにも、変って居たのかねえ。
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ある坊角に来た時、馬をぴたと止めて、独り言のように言った。
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……旧草《ふるくさ》に 新草《にひくさ》まじり、生ひば 生ふるかに――だな。
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近頃見つけた歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所《かぶしょ》の古記録「東歌《あずまうた》」の中に見た一首がふと、此時、彼の言いたい気持ちを、代作して居てくれていたように、思い出された。
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そうだ。「おもしろき野《ぬ》をば 勿《な》焼きそ」だ。此でよいのだ。
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けげんな顔を仰《あおむけ》けている伴人《ともびと》らに、柔和な笑顔を向けた。
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そうは思わぬか。立ち朽《ぐさ》りになった家の間に、どしどし新しい屋敷が出来て行く。都は何時までも、家は建て詰まぬが、其でもどちらかと謂えば、減るよりも殖えて行っている。此辺は以前、今頃になると、蛙めの、あやまりたい程鳴く田の原が、続いてたもんだ。
仰《おっしゃ》るとおりで御座ります。春は蛙、夏はくちなわ、秋は蝗《いなご》まろ。此辺はとても、歩けたところでは、御座りませんでした。
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今一人が言う。
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建つ家もたつ家も、この立派さは、まあどうで御座りましょう。其に、どれも此も、此頃急にはやり出した築土垣《つきひじがき》を築きまわしまして。何やら、以前とはすっかり変った処に、参った気が致します。
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馬上の主人も、今まで其ばかり考えて居た所であった。だが彼の心は、瞬間明るくなって、先年|三形王《みかたのおおきみ》の御殿での宴《うたげ》に誦《くちずさ》んだ即興が、その時よりも、今はっきりと内容を持って、心に浮んで来た。
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うつり行く時見る毎に、心|疼《いた》く 昔の人し 思ほゆるかも
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目をあげると、東の方春日の杜《もり》は、谷陰になって、ここからは見えぬが、御蓋《みかさ》山・高円《たかまど》山一帯、頂が晴れて、すばらしい春日和《はるびより》になって居た。
あきらめがさせるのどけさなのだ、とすぐ気がついた。でも、彼の心のふさぎのむし[#「ふさぎのむし」に傍点]は迹《あと》を潜めて、唯、まるで今歩いているのが、大日本平城京《おおやまとへいせいけい》の土ではなく、大唐長安の大道の様な錯覚の起って来るのが押えきれなかった。此馬がもっと、毛並みのよい純白の馬で、跨《またが》って居る自身も亦、若々しい二十代の貴公子の気がして来る。神々から引きついで来た、重苦しい家の歴史だの、夥《おびただ》しい数の氏人などから、すっかり截《き》り離されて、自由な空にかけって居る自分ででもあるような、豊かな心持ちが、暫らくは払っても払っても、消えて行かなかった。
おれは若くもなし。第一、海東の大日本人《おおやまとびと》である。おれには、憂鬱《ゆううつ》な家職が、ひしひしと、肩のつまるほどかかって居るのだ。こんなことを考えて見ると、寂しくてはかない気もするが、すぐに其は、自身と関係のないことのように、心は饒《にぎ》わしく和らいで来て、為方がなかった。
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おい、汝《わけ》たち。大伴|氏上家《うじのかみけ》も、築土垣を引き廻そうかな。
とんでもないことを仰せられます。
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二人の声が、おなじ感情から迸《ほとばし》り出た。
年の増した方の資人《とねり》が、切実な胸を告白するように言った。
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私どもは、御譜第では御座りません。でも、大伴と言うお名は、御門《みかど》御垣《みかき》と、関係深い称《とな》えだ、と承って居ります。大伴家からして、門垣を今様にする事になって御覧《ごろう》じませ。御一族の末々まで、あなた様をお呪《のろ》い申し上げることでおざりましょう。其どころでは、御座りません。第一、ほかの氏々――大伴家よりも、ぐんと歴史の新しい、人の世になって初まった家々の氏人までが、御一族を蔑《ないがしろ》に致すことになりましょう。
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こんな事を言わして置くと、折角澄みかかった心も、又曇って来そうな気がする。家持は忙《あわ》てて、資人の口を緘《と》めた。
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うるさいぞ。誰に言う語だと思うて、言うて居るのだ。やめぬか。雑談《じょうだん》だ。雑談を真に受ける奴が、あるものか。
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馬はやっぱり、しっとしっとと、歩いて居た。築土垣 築土垣。又、築土垣。こんなに何時の間に、家構えが替って居たのだろう。家持は、なんだか、晩《おそ》かれ早かれ、ありそうな気のする次の都――どうやらこう、もっとおっぴらいた平野の中の新京城にでも、来ているのでないかと言う気が、ふとしかかったのを、危く喰いとめた。
築土垣 築土垣。もう、彼の心は動かなくなった。唯、よいとする気持ちと、よくないと思おうとする意思との間に、気分だけが、あちらへ寄りこちらへよりしているだけであった。
何時の間にか、平群《へぐり》の丘や、色々な塔を持った京西の寺々の見渡される、三条辺の町尻に来て居ることに気がついた。
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これはこれは。まだここに、残っていたぞ。
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珍しい発見をしたように、彼は馬から身を翻《かえ》しておりた。二人の資人はすぐ、馳《か》け寄って手綱を控えた。
家持は、門と門との間に、細かい柵《さく》をし囲《めぐ》らし、目隠しに枳殻《からたちばな》の叢生《やぶ》を作った家の外構えの一個処に、まだ石城《しき》が可なり広く、人丈にあまる程に築いてあるそばに、近寄って行った。
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荒れては居るが、ここは横佩墻内《よこはきかきつ》だ。
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そう言って、暫らく息を詰めるようにして、石垣の荒い面を見入って居た。
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そうに御座ります。此石城からしてついた名の、横佩墻内だと申しますとかで、せめて一ところだけは、と強いてとり毀《こぼ》たないとか申します。何分、帥《そつ》の殿のお都入りまでは、何としても、此儘《このまま》で置くので御座りましょう。さように、人が申し聞けました。はい。
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何時の間にか、三条七坊まで来てしまっていたのである。
おれは、こんな処へ来ようと言う考えはなかったのに――。だが、やっぱり、おれにはまだまだ、若い色好みの心が、失せないで居るぞ。何だか、自分で自分をなだめる様な、反省らしいものが出て来た。
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其にしても、静か過ぎるではないか。
さようで。で御座りますが、郎女《いらつめ》のお行くえも知れ、乳母もそちらへ行ったとか、今も人が申しましたから、落ちついたので御座りましょう。
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詮索ずきそうな顔をした若い方が、口を出す。
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いえ。第一、こんな場合は、騒ぐといけません。騒ぎにつけこんで、悪い魂《たま》や、霊《もの》が、うようよとつめかけて来るもので御座ります。この御館《みたち》も、古いおところだけに、心得のある長老《おとな》の一人や、二人は、難波へも下らずに、留守に居るので御座りましょう。
もうよいよい。では戻ろう。
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十
おとめの閨戸《ねやど》をおとなう風《ふう》は、何も、珍しげのない国中の為来《しきた》りであった。だが其にも、曾《かつ》てはそうした風の、一切行われて居なかったことを、主張する村々があった。何時のほどにか、そうした村が、他村の、別々に守って来た風習と、その古い為来りとをふり替えることになったのだ、と言う。かき上る段になれば、何の雑作もない石城だけれど、あれを大昔からとり廻して居た村と、そうでない村とがあった。こんな風に、しかつめらしい説明をする宿老《とね》たちが、どうかすると居た。多分やはり、語部などの昔語りから、来た話なのであろう。踏み越えても這入《はい》れ相《そう》に見える石垣だが、大昔交された誓いで、目に見えぬ鬼神《もの》から、人間に到るまで、あれが形だけでもある限り、入りこまぬ事になっている。こんな約束が、人と鬼《もの》との間にあって後、村々の人は、石城の中に、ゆったりと棲《す》むことが出来る様になった。そうでない村々では、何者でも、垣を躍り越えて這入って来る。其は、別の何かの為方で、防ぐ外はなかった。祭りの夜でなくても、村なかの男は何の憚《はばか》りなく、垣を踏み越えて処女の蔀戸《しとみど》をほとほとと叩く。石城を囲うた村には、そんなことは、一切なかった。だから、美《くわ》し女《め》の家に、奴隷《やっこ》になって住みこんだ古《いにしえ》の貴《あて》びともあった。娘の父にこき使われて、三年五年、いつか処女に会われよう、と忍び過した、身にしむ恋物語りもあるくらいだ。石城を掘り崩すのは、何処からでも鬼
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