春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山《たかまどやま》の墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村《やまむら》、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆|空足《からあし》を踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿《たど》って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛《はぎ》まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻《もとどり》をとり束ねて、襟から着物の中に、含《くく》み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳《そび》えて居た。毛孔《けあな》の竪《た》つような畏《おそろ》しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、頻《しき》りなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野《あらの》。それに――本村《ほんむら》を遠く離れた、時はずれの、人|棲《す》まぬ田居《たい》ばかりである。
片破れ月が、上《あが》って来た。其が却《かえっ》て、あるいている道の辺《ほとり》の凄《すご》さを照し出した。其でも、星明りで辿って居るよりは、よるべを覚えて、足が先へ先へと出た。月が中天へ来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり[#「ひいわり」に傍点]白んで来た。
夜のほのぼの明けに、姫は、目を疑うばかりの現実に行きあった。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占って居るようだった。そう言う女どものふるまいに、特別に気は牽《ひ》かれなかった郎女だけれど、よく其人々が、「今朝の朝目がよかったから」「何と言う情ない朝目でしょう」などと、そわそわと興奮したり、むやみに塞《ふさ》ぎこんだりして居るのを、見聞きしていた。
郎女《いらつめ》は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂《い》った語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗《にぬ》りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。そうして、門から、更に中門が見とおされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配《こうばい》に建てられた堂・塔・伽藍《がらん》は、更に奥深く、朱《あけ》に、青に、金色に、光りの棚雲を、幾重にもつみ重ねて見えた。朝目のすがしさは、其ばかりではなかった。其|寂寞《せきばく》たる光りの海から、高く抽《ぬき》でて見える二上の山。淡海公の孫、大織冠《たいしょくかん》には曾孫。藤氏族長太宰帥、南家《なんけ》の豊成、其|第一嬢子《だいいちじょうし》なる姫である。屋敷から、一歩はおろか、女部屋を膝行《いざ》り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女のことである。順道《じゅんとう》ならば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡《ひらおか》の御神か、春日の御社《みやしろ》に、巫女《みこ》の君として仕えているはずである。家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗《ほのぐら》い女部屋に起き臥ししている人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おうしたてられて来た。
寺の浄域が、奈良の内外《うちと》にも、幾つとあって、横佩墻内《よこはきかきつ》と讃えられている屋敷よりも、もっと広大なものだ、と聞いて居た。そうでなくても、経文の上に伝えた浄土の荘厳《しょうごん》をうつすその建て物の様は想像せぬではなかった。だが目《ま》のあたり見る尊さは唯息を呑むばかりであった。之に似た驚きの経験は曾《かつ》て一度したことがあった。姫は今其を思い起して居る。簡素と豪奢《ごうしゃ》との違いこそあれ、驚きの歓喜は、印象深く残っている。
今の太上天皇様が、まだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳の南家の郎女は、童女《わらわめ》として、初の殿上《てんじょう》をした。穆々《ぼくぼく》たる宮の内の明りは、ほのかな香気を含んで、流れて居た。昼すら真夜《まよ》に等しい、御帳台《みちょうだい》のあたりにも、尊いみ声は、昭々《しょうしょう》と珠《たま》を揺る如く響いた。物わきまえもない筈の、八歳の童女が感泣した。
「南家には、惜しい子が、女になって生れたことよ」と仰せられた、と言う畏《おそ》れ多い風聞が、暫らく貴族たちの間に、くり返された。其後十二年、南家の娘は、二十《はたち》になっていた。幼いからの聡《さと》さにかわりはなくて、玉・水精《すいしょう》の美しさが益々加って来たとの噂が、年一年と高まって来る。
姫は、大門の閾《しきみ》を越えながら、童女殿上の昔の畏《かしこ》さを、追想して居たのである。長い甃道《いしきみち》を踏んで、中門に届く間にも、誰一人出あう者がなかった。恐れを知らず育てられた大貴族の郎女は、虔《つつま》しく併しのどかに、御堂御堂を拝んで、岡の東塔に来たのである。
ここからは、北大和の平野は見えぬ。見えたところで、郎女は、奈良の家を考え浮べることも、しなかったであろう。まして、家人たちが、神隠しに遭《お》うた姫を、探しあぐんで居ようなどとは、思いもよらなかったのである。唯うっとりと、塔の下《もと》から近々と仰ぐ、二上山の山肌に、現《うつ》し世《よ》の目からは見えぬ姿を惟《おも》い観《み》ようとして居るのであろう。
此時分になって、寺では、人の動きが繁くなり出した。晨朝《じんちょう》の勤めの間も、うとうとして居た僧たちは、爽《さわ》やかな朝の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、食堂《じきどう》へ降りて行った。奴婢《ぬひ》は、其々もち場持ち場の掃除を励む為に、ようべの雨に洗ったようになった、境内の沙地《すなじ》に出て来た。
[#ここから1字下げ]
そこにござるのは、どなたぞな。
[#ここで字下げ終わり]
岡の陰から、恐る恐る頭をさし出して問うた一人の寺奴《やっこ》は、あるべからざる事を見た様に、自分自身を咎《とが》めるような声をかけた。女人の身として、這入《はい》ることの出来ぬ結界を犯していたのだった。姫は答えよう、とはせなかった。又答えようとしても、こう言う時に使う語には、馴れて居ぬ人であった。
若《も》し又、適当な語を知って居たにしたところで、今はそんな事に、考えを紊《みだ》されては、ならぬ時だったのである。
姫は唯、山を見ていた。依然として山の底に、ある俤《おもかげ》を観じ入っているのである。寺奴は、二言とは問いかけなかった。一晩のさすらいでやつれては居ても、服装から見てすぐ、どうした身分の人か位の判断は、つかぬ筈はなかった。又暫らくして、四五人の跫音《あしおと》が、びたびたと岡へ上って来た。年のいったのや、若い僧たちが、ばらばらと走って、塔のやらいの外まで来た。
[#ここから1字下げ]
ここまで出て御座れ。そこは、男でも這入るところではない。女人《にょにん》は、とっとと出てお行きなされ。
[#ここで字下げ終わり]
姫は、やっと気がついた。そうして、人とあらそわぬ癖をつけられた貴族の家の子は、重い足を引きながら、竹垣の傍まで来た。
[#ここから1字下げ]
見れば、奈良のお方そうなが、どうして、そんな処にいらっしゃる。
それに又、どうして、ここまでお出でだった。伴《とも》の人も連れずに――。
[#ここで字下げ終わり]
口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめいめい、貴い女性をいたわる気持ちになって居た。
[#ここから1字下げ]
山をおがみに……。
[#ここで字下げ終わり]
まことに唯|一詞《ひとこと》。当の姫すら思い設けなんだ詞《ことば》が、匂うが如く出た。貴族の家庭の語と、凡下《ぼんげ》の家々の語とは、すっかり変って居た。だから言い方も、感じ方も、其うえ、語其ものさえ、郎女の語が、そっくり寺の所化輩《しょけはい》には、通じよう筈がなかった。
でも其でよかったのである。其でなくて、語の内容が、其まま受けとられようものなら、南家の姫は、即座に気のふれた女、と思われてしまったであろう。
[#ここから1字下げ]
それで、御館《みたち》はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問うのだよ――。
おお。家はとや。右京藤原南家……。
[#ここで字下げ終わり]
俄然《がぜん》として、群集の上にざわめきが起った。四五人だったのが、あとから後から登って来た僧たちも加って、二十人以上にもなって居た。其が、口々に喋《しゃべ》り出したものである。
ようべの嵐に、まだ残りがあったと見えて、日の明るく照って居る此|小昼《こびる》に、又風が、ざわつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方《こなた》にも小桜の花が、咲き出したのである。
此時分になって、奈良の家では、誰となく、こんな事を考えはじめていた。此はきっと、里方の女たちのよく[#「よく」に傍点]する、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ、習しである。春秋の、日と夜と平分する其頂上に当る日は、一日、日の影を逐《お》うて歩く風が行われて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送って行く女衆が多かった。そうして、夜に入ってくたくたになって、家路を戻る。此|為来《しきた》りを何時となく、女たちの咄《はな》すのを聞いて、姫が、女の行として、この野遊びをする気になられたのだ、と思ったのである。こう言う、考えに落ちつくと、ありようもない考えだと訣《わか》って居ても、皆の心が一時、ほうと軽くなった。
ところが、其日も昼さがりになり、段々|夕光《ゆうかげ》の、催して来る時刻が来た。昨日は、駄目になった日の入りの景色が、今日は中日にも劣るまいと思われる華やかさで輝いた。横佩家の人々の心は、再重くなって居た。
八
奈良の都には、まだ時おり、石城《しき》と謂《い》われた石垣を残して居る家の、見かけられた頃である。度々の太政官符《だいじょうがんぷ》で、其を家の周りに造ることが、禁ぜられて来た。今では、宮廷より外には、石城を完全にとり廻した豪族の家などは、よくよくの地方でない限りは、見つからなくなって居る筈なのである。
其に一つは、宮廷の御在所が、御一代御一代に替って居た千数百年の歴史の後に、飛鳥の都は、宮殿の位置こそ、数町の間をあちこちせられたが、おなじ山河一帯の内にあった。其で凡《およそ》、都遷《みやこうつ》しのなかった形になったので、後から後から地割りが出来て、相応な都城《とじょう》の姿は備えて行った。其数朝の間に、旧族の屋敷は、段々、家構えが整うて来た。
葛城に、元のままの家を持って居て、都と共に一代ぎりの、屋敷を構えて居た蘇我臣《そがのおみ》なども、飛鳥の都では、次第に家作りを拡げて行って、石城《しき》なども高く、幾重にもとり廻して、凡永久の館作りをした。其とおなじ様な気持ちから、どの氏でも、大なり小なり、そうした石城づくりの屋敷を構えるようになって行った。
蘇我臣|一流《ひとなが》れで最栄えた島の大臣家《おとどけ》の亡びた時分から、石城の構えは禁《と》められ出した。
この国のはじまり、天から授けられたと言う、宮廷に伝わる神の御詞《みことば》に背く者は、今もなかった。が、書いた物の力は、其が、どのように由緒のあるものでも、其ほどの威力を感じるに到らぬ時代が、まだ続いて居た。
其飛鳥の都も、高天原広野姫尊様《たかまのはらひろぬひめのみことさま》の思召《おぼしめ》しで、其から一里北の藤井|个《が》原に遷され、藤原の都と名を替えて、新しい唐様《もろこしよう》の端正《きらきら》しさを尽した宮殿が、建ち並ぶ様になった。近い飛鳥から、新渡来《いまき》の高麗馬《こま》に跨《またが》って、馬上で通う風流士《たわれお》もあるにはあったが、多くはやはり、鷺栖《さぎす》の阪の北、香具山の麓《ふもと》から西へ、新しく地割りせられた京城《けいじ
前へ
次へ
全16ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング