、当座は、姫の考えに任せよう、と言うことになった。
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郎女様。如何お考え遊ばしまする。おして、奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤《もっとも》、寺方でも、候人《さぶらいびと》や、奴隷《やっこ》の人数を揃えて、妨げましょう。併し、御館のお勢いには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考えを承らずには、何とも計いかねまする。御思案お洩《もら》し遊ばされ。
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謂《い》わば、難題である。あて人の娘御に、出来よう筈のない返答である。乳母《おも》も、子古も、凡《およそ》は無駄な伺いだ、と思っては居た。ところが、郎女の答えは、木魂返《こだまがえ》しの様に、躊躇《ためら》うことなしにあった。其上、此ほどはっきりとした答えはない、と思われる位、凛《りん》としていた。其が、すべての者の不満を圧倒した。
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姫の咎《とが》は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。
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郎女の声・詞《ことば》を聞かぬ日はない身狭乳母ではあった。だがついしか[#「ついしか」に傍点]此ほどに、頭の髄まで沁《し》み入るような、さえざえとした語を聞いたことのない、乳母《ちおも》だった。
寺方の言い分に譲るなど言う問題は、小い事であった。此|爽《さわ》やかな育ての君の判断力と、惑いなき詞に感じてしまった。ただ、涙。こうまで賢《さか》しい魂を窺《うかが》い得て、頬に伝うものを拭うことも出来なかった。子古にも、郎女の詞を伝達した。そうして、自分のまだ曾《かつ》て覚えたことのない感激を、力深くつけ添えて聞かした。
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ともあれ此上は、難波津《なにわづ》へ。
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難波へと言った自分の語に、気づけられたように、子古は思い出した。今日か明日、新羅《しらぎ》問罪の為、筑前へ下る官使の一行があった。難波に留っている帥の殿も、次第によっては、再太宰府へ出向かれることになっているかも知れぬ。手遅れしては一大事である。此足ですぐ、北へ廻って、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶う処は馬で走ろう、と決心した。
万法蔵院に、唯一つ飼って居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。今日の日暮れまでには、立ち還りに、難波へ行って来る、と歯のすいた口に叫びながら、郎女の竪帷に向けて、庭から匍伏《ほふく》した。
子古の発った後は、又のどかな春の日に戻った。悠々《うらうら》と照り暮す山々を見せましょう、と乳母が言い出した。木立ち・山陰から盗み見する者のないように、家人らを、一町・二町先まで見張りに出して、郎女を、外に誘い出した。
暴風雨《あらし》の夜、添下《そうのしも》・広瀬・葛城の野山を、かち[#「かち」に傍点]あるきした娘御ではなかった。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。日の光りは、霞みもせず、陽炎《かげろう》も立たず、唯おどんで見えた。昨日跳めた野も、斜になった日を受けて、物の影が細長く靡《なび》いて居た。青垣の様にとりまく山々も、愈々《いよいよ》遠く裾を曳《ひ》いて見えた。早い菫《すみれ》―げんげ―が、もうちらほら咲いている。遠く見ると、その赤々とした紫が一続きに見えて、夕焼け雲がおりて居るように思われる。足もとに一本、おなじ花の咲いているのを見つけた郎女《いらつめ》は、膝を叢《くさむら》について、じっと眺め入った。
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これはえ――。
すみれ、と申すとのことで御座ります。
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こう言う風に、物を知らせるのが、あて人に仕える人たちの、為来《しきた》りになって居た。
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蓮《はちす》の花に似ていながら、もっと細やかな、――絵にある仏の花を見るような――。
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ひとり言しながら、じっと見ているうちに、花は、広い萼《うてな》の上に乗った仏の前の大きな花になって来る。其がまた、ふっと、目の前のささやかな花に戻る。
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夕風が冷《ひや》ついて参ります。内へと遊ばされ。
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乳母が言った。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
近々と、谷を隔てて、端山の林や、崖《なぎ》の幾重も重った上に、二上の男岳《おのかみ》の頂が、赤い日に染って立っている。
今日は、又あまりに静かな夕《ゆうべ》である。山ものどかに、夕雲の中に這入《はい》って行こうとしている。
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もうしもうし。もう外に居る時では御座りません。
[#ここで字下げ終わり]
十三
「朝目よく」うるわしい兆《しるし》を見た昨日は、郎女《いらつめ》にとって、知らぬ経験を、後から後から展《ひら》いて行ったことであった。ただ人《びと》の考えから言えば、苦しい現実のひき続きではあったのだが、姫にとっては、心驚く事ばかりであった。一つ一つ変った事に逢う度に、「何も知らぬ身であった」と姫の心の底の声が揚った。そうして、その事毎に、挨拶をしてはやり過したい気が、一ぱいであった。今日も其続きを、くわしく見た。
なごり惜しく過ぎ行く現《うつ》し世《よ》のさまざま。郎女は、今目を閉じて、心に一つ一つ収めこもうとして居る。ほのかに通り行き、将《はた》著しくはためき[#「はためき」に傍点]過ぎたもの――。宵闇の深くならぬ先に、廬《いおり》のまわりは、すっかり手入れがせられて居た。灯台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々《こうこう》と、油火《あぶらび》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処には、すさまじいと言う者があって、どこかへ搬《はこ》んで行かれた。其よりも、郎女の為には、帳台の設備《しつら》われている安らかさ。今宵は、夜も、暖かであった。帷帳《とばり》を周《めぐ》らした中は、ほの暗かった。其でも、山の鬼神《もの》、野の魍魎《もの》を避ける為の灯の渦が、ぼうと梁《はり》に張り渡した頂板《つしいた》に揺めいて居るのが、たのもしい気を深めた。帳台のまわりには、乳母や、若人が寝たらしい。其ももう、一時《ひととき》も前の事で、皆すやすやと寝息の音を立てて居る。姫の心は、今は軽かった。たとえば、俤《おもかげ》に見たお人には逢わずとも、その俤を見た山の麓《ふもと》に来て、こう安らかに身を横えて居る。
灯台の明りは、郎女の額の上に、高く朧《おぼ》ろに見える光りの輪を作って居た。月のように円くて、幾つも上へ上へと、月輪《がちりん》の重っている如くも見えた。其が、隙間風の為であろう。時々薄れて行くと、一つの月になった。ぽうっと明り立つと、幾重にも隈《くま》の畳まった、大きな円《まど》かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今宵も谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、今頃やっと、遅い月が出たことであろう。
物の音。――つた つたと来て、ふうと佇《た》ち止るけはい。耳をすますと、元の寂《しず》かな夜に、――激《たぎ》ち降《くだ》る谷のとよみ。
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つた つた つた。
[#ここで字下げ終わり]
又、ひたと止《や》む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音《あしおと》だろう。
[#ここから1字下げ]
つた。
[#ここで字下げ終わり]
郎女は刹那《せつな》、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじ[#「わじわじ」に傍点]と戦《おのの》きが出て来た。
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天若御子《あめわかみこ》――。
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ようべ、当麻語部嫗《たぎまのかたりのおむな》の聞した物語り。ああ其お方の、来て窺《うかが》う夜なのか。
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――青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
刀自もがも。女弟《おと》もがも。
その子の はらからの子の
処女子《おとめご》の 一人
一人だに わが配偶《つま》に来よ
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まことに畏《おそろ》しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧《おさ》えられるような畏《こわ》さを知った。あああの歌が、胸に生き蘇《かえ》って来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞《ことば》から、胸にとおって響く。乳房から迸《ほとばし》り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺《しわ》だむ。
つい[#「つい」に傍点]と、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑《つぶ》った。だが――瞬間|睫《まつげ》の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴《つか》んだ片手の白く光る指。
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なも 阿弥陀《あみだ》ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
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何の反省もなく、唇を洩《も》れた詞。この時、姫の心は、急に寛《くつろ》ぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直《すぐ》に動顛《どうてん》した心を、とり直すことが出来た。
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のうのう。あみだほとけ……。
[#ここで字下げ終わり]
今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経の文《もん》が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、簾《すだれ》越しにも聴聞は許されなかった。御経《おんきょう》の文《もん》は手写しても、固《もと》より意趣は、よく訣《わか》らなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟《とっさ》に口に上ろう、とは思うて居なかった。
白い骨、譬《たと》えば白玉の並んだ骨の指、其が何時までも目に残って居た。帷帳は、元のままに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでいるような気がする。
悲しさとも、懐しみとも知れぬ心に、深く、郎女は沈んで行った。山の端に立った俤びとは、白々《しろじろ》とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のように、からびて寂しく、目にうつる。
長い渚を歩いて行く。郎女の髪は、左から右から吹く風に、あちらへ靡《なび》き、こちらへ乱れする。浪《なみ》はただ、足もとに寄せている。渚と思うたのは、海の中道《なかみち》である。浪は、両方から打って来る。どこまでもどこまでも、海の道は続く。郎女の足は、砂を踏んでいる。その砂すらも、段々水に掩《おお》われて来る。砂を踏む。踏むと思うて居る中に、ふと其が、白々とした照る玉だ、と気がつく。姫は身を屈《こご》めて、白玉を拾う。拾うても拾うても、玉は皆、掌《たなそこ》に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾い続ける。玉は水隠《みがく》れて、見えぬ様になって行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬《すく》おうとする。掬《むす》んでも掬んでも、水のように、手股《たなまた》から流れ去る白玉――。玉が再、砂の上につぶつぶ並んで見える。忙《あわただ》しく拾おうとする姫の俯《うつむ》いた背を越して、流れる浪が、泡立ってとおる。
姫は――やっと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。そう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆《たお》される。浪に漂う身……衣もなく、裳《も》もない。抱き持った等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現《うつ》し身《み》。
ずんずんと、さがって行く。水底《みなぞこ》に水漬《みづ》く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹《ひともと》の白い珊瑚《さんご》の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生い靡《なび》くのは、玉藻であった。玉藻が、深海のうねりのままに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほっと息をついた。
まるで、潜《かず》きする海女が二十尋《はたひろ》・三十尋《みそひろ》の水底から浮び上って嘯《うそぶ》く様に、深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
ああ夢だった。当麻《たぎま》まで来た夜道の記憶は、まざまざと残って居るが、こんな苦しさは覚えなかった。
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