のままをうつしてくれ、……土竜《もぐら》の目なと、おれに貸しおれ。
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声は再、寂《しず》かになって行った。独り言する其声は、彼の人の耳にばかり聞えて居るのであろう。丑刻《うし》に、静謐《せいひつ》の頂上に達した現し世は、其が過ぎると共に、俄《にわ》かに物音が起る。月の、空を行く音すら聞えそうだった四方の山々の上に、まず木の葉が音もなくうごき出した。次いではるかな谿《たに》のながれの色が、白々と見え出す。更に遠く、大和|国中《くになか》の、何処からか起る一番鶏のつくるとき[#「とき」に傍点]。
暁が来たのである。里々の男は、今、女の家の閨戸《ねやど》から、ひそひそと帰って行くだろう。月は早く傾いたけれど、光りは深夜の色を保っている。午前二時に朝の来る生活に、村びとも、宮びとも忙しいとは思わずに、起きあがる。短い暁の目覚めの後、又、物に倚《よ》りかかって、新しい眠りを継ぐのである。
山風は頻《しき》りに、吹きおろす。枝・木の葉の相軋《あいひし》めく音が、やむ間なく聞える。だが其も暫らくで、山は元のひっそ[#「ひっそ」に傍点]としたけしきに還《かえ》る。唯、すべてが薄暗く、すべてが隈《くま》を持ったように、朧《おぼ》ろになって来た。
岩窟《いわむろ》は、沈々と黝《くら》くなって冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞って垂れている。
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耳面刀自《みみものとじ》。おれには、子がない。子がなくなった。おれは、その栄えている世の中には、跡を胎《のこ》して来なかった。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り伝える子どもを――。
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岩牀《いわどこ》の上に、再白々と横って見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その真裸な骨の上に、鋭い感覚ばかりが活《い》きているのであった。
まだ反省のとり戻されぬむくろ[#「むくろ」に傍点]には、心になるものがあって、心はなかった。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であったに違いはない。自分すら忘れきった、彼の人の出来あがらぬ心に、骨に沁《し》み、干からびた髄の心までも、唯|彫《え》りつけられたようになって、残っているのである。

万法蔵院の晨朝《じんちょう》の鐘だ。夜の曙色《あけいろ》に、一度|騒立《さわだ》った物々の胸をおちつかせる様に、鳴りわたる鐘の音《ね》だ
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