で歩く、跫音《あしおと》だろう。
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つた。
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郎女は刹那《せつな》、思い出して帳台の中で、身を固くした。次にわじわじ[#「わじわじ」に傍点]と戦《おのの》きが出て来た。
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天若御子《あめわかみこ》――。
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ようべ、当麻語部嫗《たぎまのかたりのおむな》の聞した物語り。ああ其お方の、来て窺《うかが》う夜なのか。
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――青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
刀自もがも。女弟《おと》もがも。
その子の はらからの子の
処女子《おとめご》の 一人
一人だに わが配偶《つま》に来よ
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まことに畏《おそろ》しいと言うことを覚えぬ郎女にしては、初めてまざまざと、圧《おさ》えられるような畏《こわ》さを知った。あああの歌が、胸に生き蘇《かえ》って来る。忘れたい歌の文句が、はっきりと意味を持って、姫の唱えぬ口の詞《ことば》から、胸にとおって響く。乳房から迸《ほとばし》り出ようとするときめき。
帷帳がふわと、風を含んだ様に皺《しわ》だむ。
つい[#「つい」に傍点]と、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑《つぶ》った。だが――瞬間|睫《まつげ》の間から映った細い白い指、まるで骨のような――帷帳を掴《つか》んだ片手の白く光る指。
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なも 阿弥陀《あみだ》ほとけ。あなたふと 阿弥陀ほとけ。
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何の反省もなく、唇を洩《も》れた詞。この時、姫の心は、急に寛《くつろ》ぎを感じた。さっと――汗。全身に流れる冷さを覚えた。畏い感情を持ったことのないあて人の姫は、直《すぐ》に動顛《どうてん》した心を、とり直すことが出来た。
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のうのう。あみだほとけ……。
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今一度口に出して見た。おとといまで、手写しとおした、称讃浄土経の文《もん》が胸に浮ぶ。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかった。父君は家の内に道場を構えて居たが、簾《すだれ》越しにも聴聞は許されなかった。御経《おんきょう》の文《もん》は手写しても、固《もと》より意趣は、よく訣《わか》らなかった。だが、処々には、かつがつ気持ちの汲みとれる所があったのであろう。さすがに、まさかこんな時、突嗟《とっさ》に口に上ろう、とは思うて
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