岩窟《イハムロ》は、沈々と黝《クラ》くなつて冷えて行く。
した した。水は、岩肌を絞つて垂れてゐる。
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耳面刀自《ミヽモノトジ》。おれには、子がない。子がなくなつた。おれは、その榮えてゐる世の中には、跡を貽《ノコ》して來なかつた。子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――。
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岩|牀《ドコ》の上に、再白々と横つて見えるのは、身じろきもせぬからだである。唯その眞裸な骨の上に、鋭い感覺ばかりが活きてゐるのであつた。
まだ反省のとり戻されぬむくろ[#「むくろ」に傍点]には、心になるものがあつて、心はなかつた。
耳面刀自の名は、唯の記憶よりも、更に深い印象であつたに違ひはない。自分すら忘れきつた、彼の人の出來あがらぬ心に、骨に沁み、干からびた髓の心《シン》までも、唯|彫《ヱ》りつけられたやうになつて、殘つてゐるのである。

萬法藏院の晨朝《ジンテウ》の鐘だ。夜の曙色《アケイロ》に、一度|騷立《サワダ》つた物々の胸をおちつかせる樣に、鳴りわたる鐘の音《ネ》だ。一《イツ》ぱし白みかゝつて來た東は、更にほの暗い明《ア》け昏《グ》れの寂け
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