さに返つた。
南家の郎女は、一莖の草のそよぎでも聽き取れる曉凪《アカツキナ》ぎを、自身擾すことをすまいと言ふ風に、身じろきすらもせずに居る。
夜《ヨル》の間《マ》よりも暗くなつた廬《イホリ》の中では、明王像の立ち處《ド》さへ見定められぬばかりになつて居る。
何處からか吹きこんだ朝山|颪《オロシ》に、御|燈《アカシ》が消えたのである。當麻語部《タギマカタリ》の姥も、薄闇に蹲つて居るのであらう。姫は再、この老女の事を忘れてゐた。
たゞ一刻ばかり前、這入りの戸を搖つた物音があつた。一度 二度 三度。更に數度。音は次第に激しくなつて行つた。樞がまるで、おしちぎられでもするかと思ふほど、音に力のこもつて來た時、ちようど、鷄が鳴いた。其きりぴつたり、戸にあたる者もなくなつた。
新しい物語が、一切、語部の口にのぼらぬ世が來てゐた。けれども、頑《カタクナ》な當麻氏《タギマウヂ》の語部の古姥《フルウバ》の爲に、我々は今一度、去年以來の物語りをしておいても、よいであらう。まことに其は、昨《キゾ》の日からはじまるのである。
六
門をはひると、俄かに松風が、吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、固まつて見える堂伽藍――そこまでずつと、砂地である。
白い地面に、廣い葉の青いまゝでちらばつて居るのは、朴の木だ。
まともに、寺を壓してつき立つてゐるのは、二上山《フタカミヤマ》である。其眞下に※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2−78−60]槃佛《ネハンブツ》のやうな姿に横つてゐるのが麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に、乘りかゝつてゐるやうにしか見えない。
こんな事を、女人《ニヨニン》の身で知つて居る訣はなかつた。だが、俊敏な此旅びとの胸に、其に似たほのかな綜合の、出來あがつて居たのは疑はれぬ。暫らくの間、その薄緑の山色を仰いで居た。其から、朱塗りの、激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日|前《アト》であつた。まだあの日の喜ばしい騷ぎの響《トヨ》みが、どこかにする樣に、麓の村びと等には、感じられて居る程である。
山|颪《オロシ》に吹き暴《サラ》されて、荒草深い山裾の斜面に、萬法藏院《マンホフザウヰン》の細々とした御燈《ミアカシ》の、煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な轉變《テンペン》に、目を※[#「目+爭」、第3水準
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