こゝまでお出でだつた。伴の人も連れずに――。
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口々に問うた。男たちは、咎める口とは別に、心はめい/\、貴い女性をいたはる氣持ちになつて居た。
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山ををがみに……。
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まことに唯|一詞《ヒトコト》。當《タウ》の姫すら思ひ設けなんだ詞《コトバ》が匂ふが如く出た。
貴族の家庭の語と、凡下《ボンゲ》の家々の語とは、すつかり變つて居た。だから言ひ方も、感じ方も、其うへ、語其ものさへ、郎女の語が、そつくり寺の所化|輩《ハイ》には、通じよう筈がなかつた。
でも、其でよかつたのである。其でなくて、語の内容が、其まゝ受けとられようものなら、南家の姫は、即座に氣のふれた女、と思はれてしまつたであらう。
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それで、御館《ミタチ》はどこぞな。
みたち……。
おうちは……。
おうち……。
おやかたは、と問ふのだよ――。
をゝ。家はとや。右京藤原南家……。
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俄然として、群集の上にざはめきが起つた。四五人だつたのが、あとから後から登つて來た僧たちも加つて、二十人以上にもなつて居た。其が、口々に喋り出したものである。
ようべの嵐に、まだ殘りがあつたと見えて、日の明るく照つて居る此小|晝《ビル》に、又風が、ざはつき出した。この岡の崎にも、見おろす谷にも、其から二上山へかけての尾根《ヲネ》尾根にも、ちらほら白く見えて、花の木がゆすれて居る。山の此方《コナタ》にも小櫻の花が、咲き出したのである。
此時分になつて、奈良の家では誰となく、こんな事を考へはじめてゐた。此はきつと、里方の女たちのよく[#「よく」に傍点]する、春の野遊びに出られたのだ。――何時からとも知らぬ習《ナラハ》しである。春秋の、日と夜と平分《ヘイブン》する其頂上に當る日は、一日、日の影を逐うて歩く風が行はれて居た。どこまでもどこまでも、野の果て、山の末、海の渚まで、日を送つて行く女衆が多かつた。さうして、夜に入つてくた/\になつて、家路を戻る。此爲來りを何時となく、女たちの咄すのを聞いて、姫が、女の行《ギヤウ》として、この野遊びをする氣になられたのだ、と思つたのである。かう言ふ、考へに落ちつくと、ありやうもない考へだと訣つて居ても、皆の心が一時、ほうと輕くなつた。ところが、其日も晝さがりになり、段々|夕光《ユフカゲ》の、
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