でも、八百部の聲を聞く時分になると、衰へたなりに、健康は定まつて來たやうに見えた。やゝ蒼みを帶びた皮膚に、心もち細つて見える髮が、愈々黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言ふことを厭ふやうになつた。さうして、晝すら何か夢見るやうな目つきして、うつとり蔀戸《シトミド》ごしに、西の空を見入つて居るのが、皆の注意をひくほどであつた。
實際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなつた。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがひなさ[#「ふがひなさ」に傍点]を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出來ように、と思ふからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだらうと言ふ噂が、京・洛外に廣がつたのも、其頃である。屋敷中の人々は、上《ウヘ》近く事《ツカ》へる人たちから、垣内《カキツ》の隅に住む奴隷《ヤツコ》・婢奴《メヤツコ》の末にまで、顏を輝《カヾヤ》かして、此とり沙汰を迎へた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかつた。其ほど、此頃の郎女は氣むつかしく、外目《ヨソメ》に見えてゐたのである。
千部手寫の望みは、さうした大願から立てられたものだらう、と言ふ者すらあつた。そして誰ひとり、其を否む者はなかつた。
南家の姫の美しい膚は、益々透きとほり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。さうして、時々聲に出して誦《ジユ》する經の文《モン》が、物の音《ネ》に譬へやうもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日の事であつた。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向つて居た。日は、此屋敷からは、稍|坤《ヒツジサル》によつた遠い山の端《ハ》に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日《ラクジツ》は俄かに轉《クルメ》き出した。その速さ。雲は炎になつた。日は黄金《ワウゴン》の丸《マルガセ》になつて、その音も聞えるか、と思ふほど鋭く※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、ぢつと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽れた。夕闇の上に、目を疑ふほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、あり/\と莊嚴《シヤウゴン》な人の俤が、瞬間顯れて消えた。後《アト》は、眞暗な闇の空である。山の端《ハ》も、雲も何もない方に
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