ニヨシヤウ》は、型摺りの大樣な美しい模樣をおいた著る物を襲うて居る。笠は、淺い縁《ヘリ》に、深い縹色《ハナダ》の布が、うなじを隱すほどに、さがつてゐた。
日は仲春、空は雨あがりの、爽やかな朝である。高原《カウゲン》の寺は、人の住む所から、自《オノヅカ》ら遠く建つて居た。唯凡、百の僧俗が、寺《ジ》中に起き伏して居る。其すら、引き續く供養饗宴の疲れで、今日はまだ、遲い朝を、姿すら見せずにゐる。
その女人は、日に向つてひたすら輝く伽藍の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りを、殘りなく歩いた。寺の南|境《ザカヒ》は、み墓山の裾から、東へ出てゐる長い崎の盡きた所に、大門はあつた。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立つて居る。丘陵の道をうねりながら登つた旅びとは、東の塔の下に出た。
雨の後の水氣の、立つて居る大和の野は、すつかり澄みきつて、若晝《ワカヒル》のきら/\しい景色になつて居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡《カタヲカ》で、ほの/″\と北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の眞中に、旅笠を伏せたやうに見える遠い小山は、耳無《ミヽナシ》の山であつた。其右に高くつつ立つてゐる深緑は、畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安《ハニヤス》の池ではなからうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具《カグ》山なのだらう。旅の女子《ヲミナゴ》の目は、山々の姿を、一つ/\に辿つてゐる。天《アメノ》香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母《チヽハヽ》の育つた、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き來した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てゝ伸び上る氣持ちになつて來るのが抑へきれなかつた。
香具山の南の裾に輝く瓦舍《カハラヤ》は、大官大寺《ダイクワンダイジ》に違ひない。其から更に眞南の、山と山との間に、薄く霞んでゐるのが、飛鳥《アスカ》の村なのであらう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生ひ立たれたのであらう。この國の女子《ヲミナゴ》に生れて、一足も女部屋《ヲンナベヤ》を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎《カゲロウ》の立つてゐる平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。
かう、その女性《ニヨシヤウ》は思うてゐる。だが、何よりも大事なことは、此|郎女《イラツメ》――
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