光りも、黒い巖石が皆吸ひとつたやうに、岩窟《イハムロ》の中に見えるものはなかつた。唯けはひ[#「けはひ」に傍点]――彼の人の探り歩くらしい空氣の微動があつた。
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思ひ出しだぞ。おれが誰だつたか、――訣つたぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕へ、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦《シガツヒコ》。其が、おれだつたのだ。
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歡びの激情を迎へるやうに、岩窟《イハムロ》の中のすべての突角が哮《タケ》びの反響をあげた。彼の人は、立つて居た。一本の木だつた。だが、其姿が見えるほどの、はつきりした光線はなかつた。明りに照し出されるほど、まとまつた現《ウツ》し身《ミ》をも、持たぬ彼《カ》の人であつた。
唯、岩屋の中に矗立《シユクリツ》した、立ち枯れの木に過ぎなかつた。
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おれの名は、誰も傳へるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛《イト》しいおれの名は、さうだ。語り傳へる子があつた筈だ。語り傳へさせる筈の語部《カタリベ》も、出來て居たゞらうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しく/\と胸を刺すやうだ。
――子代《コシロ》も、名代《ナシロ》もない、おれにせられてしまつたのだ。さうだ。其に違ひない。この物足らぬ、大きな穴のあいた氣持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかつたと同前の人間になつて、現《ウツ》し身の人間どもには、忘れ了《ホ》されて居るのだ。憐みのないおつかさま。おまへさまは、おれの妻の、おれに殉死《トモジ》にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子《アハツコ》は、罪びとの子として、何處かへ連れて行かれた。野山のけだものゝ餌食《ヱジキ》に、くれたのだらう。可愛さうな妻よ。哀なむすこ[#「むすこ」に傍点]よ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が傳らない。劫初《ゴフシヨ》から末代まで、此世に出ては消える、天《アメ》の下《シタ》の青人草《アヲヒトグサ》と一列に、おれは、此世に、影も形も殘さない草の葉になるのは、いやだ。どうあつても、不承知だ。
惠みのないおつかさま。お前さまにお縋りするにも、其おまへさますら、もうおいでゞない此世かも知れぬ。
くそ――外《ソト》の世界が知りたい。世の中の樣子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其
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