傍題《はうだい》な事を言つて居る人々も、たつた此一つの話題を持ちあぐね初めた頃、噂の中の紫微内相藤原仲麻呂の姪の横佩家の郎女が、神隠しに遭つたと言ふ、人の口の端に施風《つじかぜ》を起すやうな事件が湧き上つたのである。


       四 ―その三―

兵部大輔《ひやうぶたいふ》大伴ノ家持は、偶然この噂を、極めて早く耳にした。ちようど春分《しゆんぶん》から二日目の朝、朱雀大路を南へ、馬をやつて居た。二人ばかりの資人《とねり》が、徒歩《かち》で驚くばかり足早について行く。此は晋唐の新しい文学の影響を受け過ぎるほど享け入れた文人かたぎの彼には、数年来珍しくもなくなつた癖である。かうして何処まで行くのだらう。唯、朱雀の並み木の柳の花がほけて、霞のやうに飛んで居た。向うには、低い山と狭い野が、のどかに陽炎《かげろ》ふばかりであつた。
資人の一人が、とつとと[#「とつとと」に傍点]追ひついて来たと思ふと、主人の鞍に胸をおしつける様にして、新しい耳を聞かした。今行きすがうた知り人の口から聞いたばかりの噂である。
[#ここから1字下げ]
それで、何かの……。娘御の行くへは知れたと言ふのか。
はい……。いゝえ。何分、その男がとり急いで居りまして。
間抜けめ。話はもつと上手に聴くものだ。
[#ここで字下げ終わり]
柔らかく叱つた。そこへ、今《も》一人の伴《とも》が追ひついて来た。息をきらしてゐる。
[#ここから1字下げ]
ふん。汝《わけ》は聞き出したね。南家《なんけ》の嬢子《をとめ》はどうなつた。
[#ここで字下げ終わり]
出鼻を油かけられた資人《とねり》は、表情に隠さず心の中を表した此頃の人の自由な咄し方で、まともに鼻を蠢して語つた。
当麻までをとゝひの夜の中に行つて居たこと。寺からは昨日午後、横佩家へ知らせが届いたこと。其外には、何も聞きこむ間がなかつた。
家持の聯想は、環のやうに繋つて、暫らくは馬の上から見る、街路も、人通りも、唯、物として通り過ぎるだけであつた。
南家で持つて居た藤原の氏《うぢ》の上《かみ》職が、兄の家から弟仲麻呂の方へ移らうとしてゐる。来年か、再来年の枚岡《ひらをか》祭りに、参向する氏人の長者は、自然紫微内相のほか人がなくなつて居る。紫微内相からは、嫡子久須麻呂の為、自分の家の第一嬢子をくれとせがまれて居て、先日も久須麻呂の名の歌が届き、自分の方でも、娘に代
前へ 次へ
全74ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング