やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。まるで潜《かづ》きする処女が二十尋《はたひろ》、三十尋《みそひろ》の水《みな》底から浮び上つて、つく様に深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
あゝ夢だつた。当麻まで来た夜道の記憶はまざ/″\と残つて居るが、こんな苦しさは覚えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の続きを辿つて居るのではなからうかと言ふ気がする。
水の面からさし入る月の光り、と思うた時に、ずん/\海面に浮き出て行く。さうして、悉く痕形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寝る頂板《つしいた》に、あゝ水にさし入つた月。そこに以前のまゝに、幾つも暈《かさ》の畳まつた月輪の形が揺めいて居る。
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なも、阿弥陀仏、
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再、口に出た。光りの暈は、今は愈明りを増して、輪と輪との境の隈々しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝つて、明るい光明の中に、胸、肩、頭、髪、はつきりと形を現《げん》じた。白々と袒《ぬ》いだ美しい肌、浄く伏せたまみが、郎女の寝姿を見おろして居る。乳のあたりと膝元とにある手――その指《および》、白玉の指《および》。
姫は、起き直つた。だが、天井の光りの輪は、元のまゝに、仄かに事もなく揺れて居た。
九
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貴人《うまびと》はうま人どち、やつこは奴隷《やつこ》どちと言ふからなう――。
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何時見ても紫微内相は、微塵《みじん》曇りのない円《まど》かな相好《さうがう》である。其にふるまひのおほどかなこと、若くから氏《うぢ》の上《かみ》で、数十家の一族や、日本国中数千の氏人から立てられて来た家持《やかもち》も、静かな威に圧せられるやうな気がして来る。
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言はしておくがよい。奴隷《やつこ》たちはとやかくと、口さがないのが、其為事よ。此身とお身とは、おなじ貴人《うまびと》ぢや。おのづから話も合はうと言ふもの。此身が段々なり上《のぼ》ると、うま人までが、おのづとやつこ[#「やつこ」に傍点]心になり居つて、卑屈になる。
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家持は、此が多聞天かと、心に問ひかけて居た。だがどうもさうは思はれぬ。同じ、かたどつて作るなら、とつい[#「つい」に傍点]想像が浮んで来た。八年前、越中国から帰つた当座の世の
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