巫女従軍の事実は屡見えて居る。離島方面では、島々の小ぜり合ひに、かうした神意の戦争が、近年までくり返されて居た事と思はれる。
四 結婚――女の名
「妻覓《ツマヽ》ぎ」と言ふ古語は、一口に言へば求婚である。厳格に見れば、妻探しと言ふことになる。此と似た用語例にある語は「よばふ」である。竹取物語の時代になると、既に後世風な聯想のあつた事が見えて居るが、やはり「呼ぶ」を語原として居るのである。大きな声をあげて物を言ふことである。つまり「なのる」と言ふのと、同義語なのである。名誉ある敵手の出現を望む武士の、戦場で自ら氏名を宣する形式を言ふ事になつて了うたが、古くは、もつとなまめかしいものであつた。
人の名は秘密であつた。男の名も、ずつと古くは幾通りも設けて置いて、どれが本名だか訣らなくしたものがあつた。大汝[#(ノ)]命などの名の一部分の意義は、大名持即多数の名称所有者の意であつて、名誉ある名「大名《オホナ》」を持つと言ふ意ではない様だ。事実色々の名を持つた神である。名を人格の一部と見て、本名を知れば、呪咀なども自在に行ふ事が出来るものと見たところから、なるべく名を周知させぬ様にしたのである。男は其ではとほらぬ時代になつても、女は世間的な生活に触れる事が尠かつた為、久しく、此風は守り了せたものである。平安朝の中末の頃になつても、やはりさうであつた様である。
万葉(巻十二)に「たらちねの母がよぶ名を申さめど、道行く人を誰と知りてか」と言ふ歌のあるのは『あなたは、自分の名も家も言はないぢやありませんか。あなたがおつしやれば、母が私によびかける私の名をば、おあかしも申しませうが、行きすがりの人としてのあなたを、誰とも知らずに申されませうか。』と言ふのである。兄弟にも知らせない名、母だけが知つて居る名――父は知つて居るにしてもかうした言ひ方はする。併し、母だけの養ひ子の時代を考へると、父母同棲の後もそんな事もなかつたとは言へない――其名を、他人で知つて居ると言ふのは夫だけである。女が男に自分の名を知られる事は、結婚をすると言ふ事になる。だから、男は思ふ女の名を聞き出す事に努める。錦木を娘の家の門に立てた東人とは別で、娘の家のまはりを、自身名と家とを喚《よば》うてとほる。此が「よばひ」でもあり「名告り」でもある。女が其男に許さうと思ふと、はじめて自分の名を其男に明して聞かすのであつた。
かうして許された後も、男は、女の家に通ふので、「よばふ」「なのる」が、意義転化をした時代になつても、ある時期の間は、家に迎へる事をせない。此は平安朝になつてもさうである。だからどうしても、長子などは大抵|極《ごく》の幼時は、母の家で育つのである。古くから祖の字を「おや」と訓まして、両親の意でなく「おつかさん」の意に使ふ事になつて居るのは、字は借り物だが、語には歴史がある。母を専ら親とも言ふのは、父に親しみの薄かつた幼時の用語を、成長後までも使うた為である。
娘の家へ通ふ神の話は、其こそ数へきれぬ程ある。此は神ばかりでなく、人も行うた為方であつた。どこから来るとも名のらず、ひどいのになると、顔や姿さへ暗闇まぎれに一度も見せないのがある。小説とは言ひでふ、源氏物語の人情物の時代になつても、尚且、光源氏の夕顔の許へ通ひつゞけた頃は、紐のついた顔掩ひをして居た様に書いてある。まさか其頃はそんな事もなかつたであらうと思ふ。が、かうした事の出来るのは、過去の長い繰り返しのなごりである。つまりは、よその村の男が通うて来る時に、とつた方法と見るべきであらう。よその村が異種族の団体と見られて居たのは、国家意識が出て後にも、尚続いて居たであらう。が、かうした結婚法は、どこまでが実生活の俤で、どこからが神話化せられて居るのか、区別がつきにくい。
唯、此形の今一つ古い形と見られるのは、女の家に通ふと言ふ手ぬるい方法でなく、よその娘を盗んで来る結婚の形である。
外族の村どうしの結婚の末、始終円満に行かず、何人か子を産んで後、つひに出されて戻つた妻もあつた。さうなると、子は父の手に残り、母は異郷にある訣である。子から見れば、さうした母の居る外族の村は、言はう様なく懐しかつたであらう。夢の様な憧れをよせた国の俤は、だん/\空想せられて行つた。結婚法が変つた世になつても、此空想だけは残つて居て「妣《ハヽ》が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。又古伝説にも、死んだ妣の居る国と言ふ風に扱うて居るが、此語を使つた名高い僅かな話が、亡き母に関聯して居る為であらう。此語は以前私も、日本人大部分の移住以前の故土を、譬喩的に母なる国土としたのだと考へて居たが、さうではない。全然空想の衣を着せられて後は、恋しい母の死んで行つてゐる所と言ふ風に考へられたであらうが、意義よりも語の方が古いのである。かう言つた結婚法がやはり段々と見えて居る。
奪掠婚と言ふが、此は近世ばかりか、今も、其形式は内地にも残つて居る。唯古代の奪掠法とも見える結婚の記録も、巫女生活の記念と言ふ側から見ると、さう一概にも定められぬところがある。景行天皇に隙見せられた美濃[#(ノ)]国|泳《クヽリ》[#(ノ)]宮《ミヤ》[#(ノ)]弟媛(景行紀)は、天子に迎へられたけれども、隠れて了うて出て来ない。姉|八坂入媛《ヤサカイリヒメ》をよこして言ふには「私はとつぎ[#「とつぎ」に傍線]の道を知りませんから」と言ふのである。
おなじ天皇が、日本武尊らの母|印南大郎女《イナミオホイラツメ》(播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて/\、加古川の川口の印南都麻《イナミツマ》と言ふ島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、其島に向いて吠えたので、其処に居る事が知れて、天子が出向いて連れ戻られた。印南の地名は、隠れる・ひつこもるなどの意の「いなむ」と言ふ語の名詞形から出たのだと言ふ。島の名も、かくれ妻と言ふ意だとある。「いなみづま」言ひかへれば、逃婚と言ふ事になる。奪掠婚に対して、逃走婚と言ふ方法を考へに入れねば、奪掠の真意義もわかりにくからうと思ふ。
地方豪族の娘は、其土地の神の巫女たる者が多い。殊に神に関した事のみ語る物語の性質から見ても、此等の処女が、巫女であつた事は察せられる。巫女なるが故に、人間の男との結婚に、此までの神との仲らひを喜んで棄てる様に見えては、神にすまなくもあり、其怒りが恐ろしいのである。其で形式としても、逃走婚の姿をとらなければならなかつた。又真実、従来の生活と別れる事の愛着の上から言つても、自然にもさうなつたであらう。弟媛《オトヒメ》の如きは其例で、原則としての巫女の処女生活を守り貫いた訣である。大郎女《オホイラツメ》の方は、あんなに逃げて置きながらと思はれる程、つかまつたとなると、極めて従順であつた様である。
此も沖縄の民間伝承が此の説明に役立つ。首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高島では、島の女のすべてが、一生涯の半は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止と言ふ事になつて、若い男たちがほつとした結婚法がある。
婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁げ出て、森や神山(御嶽《オタケ》と言ふ)や岩窟などに匿れて、夜は姿も見せない。昼は公然と村に来て、嫁入り先の家の水壺を満たす為に、井《カア》の水を頭に載せて搬んだりする。男は友だちを談《カタラ》うて、花嫁のありかをつき止める為に、顔色も青くなるまで尋ね廻る。若し、三日や四日で見つかると、前々から申し合せてあつたものと見て、二人の間がらは、島人全体から疑はれる事になる。勿論爪弾きをするのだ。長く隠れ了せた程、結構な結婚と見なされる。「内間《ウチマ》まか」と言ひ、職名|外間祝女《ホカマノロ》と言はれて居る人などは、今年七十七八であるが、嫁入りの当時に、七十幾日隠れとほしたと言ふが、此が頂上ださうである。夜、聟が嫁を捉へたとなると、髪束をひつゝかんだり、随分手荒な事をして連れ戻る。女も出来るだけの大声をあげて号泣する。其で村中の人が、どこそこの嫁とりも、とう/\落着したと知る事になるのである。
かうした花嫁の心持ちは、微妙なものであらうから、単に形式一遍に泣くとも見られぬが、ともかく神と人間との間にある女としての身の処置は、かうまでせねば解決がつかなかつたのである。此風を、沖縄全体の中、最近まで行うて居たのは、此島だけである。其にも拘らず、曾て一般に行うたらしい痕跡は、妻覓《ツマヽ》ぎに該当する「とじ・かめゆん」(妻捜す)「とじ・とめゆん」(妻覓る)など言ふ語で、結婚する意を示す事である。
又此島では、十三年に一度新神人の就任式の様なものがある。神人なる資格の有無を試験する事が、同時に就任式の形になるのである。「いざいほふ」と言ふ名称である。同時に、二人の夫を持つて居る様な事がないかを試験するので、七つ橋と言ふ低い橋の上を渡らせる。此貞操試験を経て、神人となると共に、村の女としての完全な資格を持つ訣である。何でもない草原の上の仮橋から落ちて、気絶したり、死んだりする不貞操な女もあると言ふ。此は、巫女が処女のみでなく、人妻をも採用する様になつた時代の形で、沖縄本島でも古くから巫女の二夫に見ゆるを認められなかつた事実のあるのと、根柢は一つである。ところが、内地の昔にも亦、此があつた。東近江の筑摩神社の祭りには、氏人の女は持つた夫の数だけの鍋をかづいて出たと言ふ。伊勢物語にも歌がある程で、名高い事だが、実は一種の「いざいほふ」に過ぎなかつたものと思はれる。鍋一つかぶる女にして、神人たる資格があつたものと思はれる。
五 女の家
近松翁の「女殺油地獄」の下の巻の書き出しに「三界に家のない女ながら、五月五日のひと夜さを、女の家と言ふぞかし」とある。近古までもあつた五月五日の夜祭りに、男が出払うた後に、女だけ家に残ると言ふ風のあつた暗示を含んで居る語である。
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鳰鳥の 葛飾早稲を贄すとも、彼愛しきを、外《ト》に立てめやも
誰ぞ。此家の戸押ふる。新嘗忌《ニフナミ》に、わが夫を遣りて、斎ふ此戸を
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万葉巻十四に出た東歌である。新嘗の夜の忌みの模様は、おなじ頃のおなじ東の事を伝へた常陸風土記にも見えてゐる。御祖《ミオヤ》の神即、母神が、地に降つて、姉なる、富士に宿を頼むと、今晩は新嘗ですからとにべ[#「にべ」に傍点]もなく断つた。妹筑波に頼むと新嘗の夜だけれど、お母さんだからと言うて、内に入れてもてなした。其から母神の呪咀によつて、富士は一年中雪がふつて、人のもてはやさぬ山となり、筑波は花紅葉によく、諸人の登る事が絶えぬとある。
新嘗の夜は、神と巫女と相共に、米の贄を喰ふ晩で、神事に与らぬ男や家族は、脇に出払うたのである。早稲を煮たお上り物を奉る夜だと言つても、あの人の来て居るのを知つて、表に立たして置かれようか、と言ふ処女なる神人の心持ちを出した民謡である。後のは、亭主を外へ出してやつて、女房一人、神人としての役をとり行うて居る此家の戸を、つき動かすのは誰だ。さては、忍び男だな、と言ふ位の意味である。
神社が祭りを専門に行ふ処と言ふ風になつて、家々の祭りが段々行はれなくなると、家の処女や、主婦が巫女としての為事を忘れて了ふ様になる。其でも徳川の末までは、一時《イツトキ》上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]などゝ言つて、女の神人を、祭りの為に、臨時に民家から択び出す様な風が、方々にあつた事を思へば、神来つて、家々を訪問する夜には、所謂「女の家」が実現せられたのであつた。
沖縄でも、地方々々の祭りの日に、家族は海岸などに出て、女だけが残つて、神に仕へる風が可なり多い。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
底本の親本:「古代研究 民俗学篇第一」大岡山書店
1929(昭和4)年4月10日発行
初出:「女性改造 第三巻第九号」
1924(大正13年)年9
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