者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母など言ふ類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主の為に、村及び村人の生活を保つ様々の方法を授けた。其高級巫女の下に、多数の采女《ウネメ》と言ふ下級巫女が居た。
此組織は、倭宮廷にも備つて居た。神主なる天子の下に、神に接近して生活する斎女王と言ふ高級巫女が、天子の近親から択ばれた。伊勢の斎宮に対して、後世賀茂の斎院の出来た事から見れば、本来は主神に仕へる皇族女子の外にも、有力な神に接する女王の巫女があつた事は考へられる。さうして此下に、天子の召使とも見える采女《ウネメ》が居た。宮廷の采女は、郡領の娘を徴して、ある期間宮廷に立ち廻らせられたものである。采女は単に召使のやうに考へて居るのは誤りで、実は国造に於ける采女同様、宮廷神に仕へ、兼ねて其象徴なる顕神《アキツカミ》の天子に仕へるのである。采女として天子の倖寵を蒙つたものもある。此は神としての資格に於てあつた事である。采女は、神以外には触れる事を禁ぜられて居たものである。
同じ組織の国造の采女の存在、其貞操問題が、平安朝の初めになると、宮廷から否定せられて居る。此は、元来なかつた制度を、模倣したと言はぬばかりの諭達であるが、実は宮廷の権威に拘ると見た為であらう。此事は、日本古代に初夜権の実在した証拠になるのである。村々の君主の家として祀る神の外にも、村人が一家の間で祀らねばならぬ神があつた。庶物にくつゝいて常在する神、時を定めて来臨する神などは、家々の女性が祀ることになつて居た。
此等の女性が、処女である事を原則とするのは勿論であるが、其は早く破れて、現に夫のない女は、処女と同格と見た。而も其は二人以上の夫には会はなかつたものと言ふ条件があつた様である。其が更に頽れて、現に妻として夫を持つて居る者にも、巫女の資格は認められて居たと見える。「神の嫁」として、神に出来るだけ接近して行くのが、此人々の為事であるのだから、処女は神も好むものと見るのは、当然である。斎女王も、処女を原則としたが、中には寡婦を用ゐたこともある。
併し、此今一つ前の形はどうであらう。村々の君主の下になつた巫女が、曾ては村々の君主自身であつた事もあるのである。魏志倭人伝の邪馬台《ヤマト》国の君主|卑弥呼《ヒミコ》は女性であり、彼の後継者も女児であつた。巫女とし
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