らうが、意義よりも語の方が古いのである。かう言つた結婚法がやはり段々と見えて居る。
奪掠婚と言ふが、此は近世ばかりか、今も、其形式は内地にも残つて居る。唯古代の奪掠法とも見える結婚の記録も、巫女生活の記念と言ふ側から見ると、さう一概にも定められぬところがある。景行天皇に隙見せられた美濃[#(ノ)]国|泳《クヽリ》[#(ノ)]宮《ミヤ》[#(ノ)]弟媛(景行紀)は、天子に迎へられたけれども、隠れて了うて出て来ない。姉|八坂入媛《ヤサカイリヒメ》をよこして言ふには「私はとつぎ[#「とつぎ」に傍線]の道を知りませんから」と言ふのである。
おなじ天皇が、日本武尊らの母|印南大郎女《イナミオホイラツメ》(播磨風土記)の許に行かれた際、大郎女は逃げて/\、加古川の川口の印南都麻《イナミツマ》と言ふ島に上られた。ところが川岸に残した愛犬が、其島に向いて吠えたので、其処に居る事が知れて、天子が出向いて連れ戻られた。印南の地名は、隠れる・ひつこもるなどの意の「いなむ」と言ふ語の名詞形から出たのだと言ふ。島の名も、かくれ妻と言ふ意だとある。「いなみづま」言ひかへれば、逃婚と言ふ事になる。奪掠婚に対して、逃走婚と言ふ方法を考へに入れねば、奪掠の真意義もわかりにくからうと思ふ。
地方豪族の娘は、其土地の神の巫女たる者が多い。殊に神に関した事のみ語る物語の性質から見ても、此等の処女が、巫女であつた事は察せられる。巫女なるが故に、人間の男との結婚に、此までの神との仲らひを喜んで棄てる様に見えては、神にすまなくもあり、其怒りが恐ろしいのである。其で形式としても、逃走婚の姿をとらなければならなかつた。又真実、従来の生活と別れる事の愛着の上から言つても、自然にもさうなつたであらう。弟媛《オトヒメ》の如きは其例で、原則としての巫女の処女生活を守り貫いた訣である。大郎女《オホイラツメ》の方は、あんなに逃げて置きながらと思はれる程、つかまつたとなると、極めて従順であつた様である。
此も沖縄の民間伝承が此の説明に役立つ。首里市から陸上一里半海上一里半の東方にある久高島では、島の女のすべてが、一生涯の半は、神人として神祭りに与かる。大正の初めに島中の申し合せで自今廃止と言ふ事になつて、若い男たちがほつとした結婚法がある。
婚礼の当夜、盃事がすむと同時に、花嫁は家を遁げ出て、森や神山(御嶽《オタケ》と言ふ)や岩
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