生きた註釈を利用する便宜が与えられている。
万葉人の時代には以前ともに携えて移動してきた同民族の落ちこぼれとして、途中の島々に定住した南島の人々を、すでに異郷人と考えだしていた。その南島定住者の後《のち》なる沖縄諸島の人々の間の、現在亡びかけている民間伝承によって、わが万葉人あるいはそれ以前の生活を窺うことのできるのは、実際もっけの幸とも言うべき、日本の学者にのみ与えられた恩賚《おんらい》である。沖縄人は、百中の九十九までは支那人の末ではない。我々の祖先と手を分つようになったころの姿を、今に多く伝えている。万葉人が現に生きて、琉球諸島の上に、万葉生活を、大正の今日、我々の前に再現してくれているわけなのだ。
二 君主――巫女
大化の改新の一つの大きな目的は、政教分離にあった。そう言うよりは、教権を奪うことが、政権をもとりあげることになるというところに目をつけたのが、この計画者の識見のすぐれていたことを見せている。
村の大きなもの、郡の広さで国と称した地方豪族の根拠地が、数えきれないほどあった。国と言うと、国郡制定以後の国と紛れやすいゆえ、いまこれを村と言うておこう。村々の君主は、しだいに強い村の君主に従えられてゆき、村々は大きな村の下に併合せられていって、大きな村の称する国名が、村々をも籠《こ》めてしまうことになった。秋津洲《あきつしま》・磯城島《しきしま》と倭《やまと》、みな大和平原における大きな村の名であった。他の村々の君主も、大体において、おなじような信仰組織を持って、村を統《す》べていた。倭宮廷の勢力が、村々の上に張ってくると、事大の心持ちから、自然にいよいよ似よったものになってきたであろう。
村の君主は国造《くにのみやつこ》と称せられた。後になるほど、政権の含蓄がこの語《ことば》に乏しくなって、教権の存在を感じるようになっていったようである。国造と称することを禁じ、村の君主の後をすべて郡領《こおりのみやつこ》と呼びかえさせ、一地方官吏とみなすことになっても、なお私《ひそ》かに国造と称するものが多かった。平安朝になっても、政権に関係なく、村々の君主の祀った神を、子孫として祀っている者には、国造の称号を黙認していたようである。出雲国造・紀国造・宗像《ムナカタ》国造などの類である。倭宮廷でも、天子自ら神主として、神に仕えられた。村々の君主も、
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