ちに、古語が遺つてゐると言ふ事に注意をし出しまして、それで、言葉を発見する事を喜んでをります。併し、さう言ふ態度、譬へば、本居宣長や鈴木重胤等の態度を見ますと言ふと、方言を非常に憐なものと見てゐる。自分等の使つてゐるものは、非常に憐なものと見てをつて、それが昔の、貴族みたいな古い言葉と合つてゐたり、古い言葉を証明するに足りるとは、望外の光栄だ、非常に有難い事だと言ふ風に、感謝するやうな気持で、方言を見てゐる。だから、我々が方言を見る態度とは違つてゐる。つまり、未だ学問的の価値が本当には定つてをらず、これから我々の使ひ方で、愈々価値を増して来る筈のものである、それが近代語であると共に古語でもあり得る、と言ふのが方言です。さう言ふものをば、国語の研究に流用するやうにして行くと言ふんですから、大分態度が違つて来て居る訣です。
二 言語伝承
けれども第一に考へなければならぬ事は、我々の言葉と言ふものは、結局お蕎麦を拵へる時のつなぎ[#「つなぎ」に傍線]みたいなものでせう。我々の思想と言ふものをば保管する為の、一つの機関に過ぎない。だから同時にその言語と言ふ機関がなければ、我々の思想と言ふものはつなぎ[#「つなぎ」に傍線]を失つた蕎麦粉と同じ事で、何処へ飛んで行つてしまふか訣らない。我々には、何も考へる事が出来ない。我々の言葉と言ふものは、後へ/\思想を伝へて行くと言ふ事の他に、現在我々が、物を集中して考へると言ふ目的の方が、もつと高い位置にあるんです。これ等は何も概念を、抽象的な観念をば扱ふところの、哲学者の言草ではありません。実際我々は言葉なくては物を考へられない。他の状態なら、中毒と同じ事です。私でもさうですが、書いて見なければ考へられないと言ふ人があるでせう。譬へば、表を書いて見なければ訣らないと言ふ人がある。又さう言ふ人が多くなつて来る世の中です。人の考へ方と言ふものは、だん/\と変つて来る。併し、言葉なくして、それ以前に何を考へてをつたかと言ふ事は、我々は考へる事も出来ません。そんな事があつたかも知れませんけれども、我々には空想する事も出来ません。
それだから、昔の人々も、言葉と言ふものに精霊がある、言葉に霊魂があると、かう考へた筈だと思ひます。つまり、日本の言葉で申しますと「言霊」と申します。言葉に精霊があり、それが不思議な作用をすることを、さきは
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