気分式の解釈ではあるが、之を重ねて来て、結局は、我々の信頼するに足る解釈を出して来る。我々の感ずるよりは、もつと時代の感覚が近かつたのだから、気分式に訓んでも自ら中核に迫るものがあつたのだ。今の我々の様になると、もはや、さうした気分では押してゆかれず、理論的に、文法や語原の上に立つてやつてゆくより仕方がない様になつてゐる。

       二

古詞章を書物に書いて、遺さうとするのは、古詞章の盛んに行はれてゐる時よりは、やゝ時代が遅れてからである。而も古い文章を書くといふ事は、たゞ単にそのまゝ書くのでは無く、書く其人の若干の理会を土台として書いてゆく。而も其理会の根本に、気分式な情緒本位のものが交らずにゐる筈がないとなれば、原《モト》の古詞章よりは、大分変つたものになる訣である。大体、昔の文章といふものは、誰が見ても訣つてゐる間はよいけれども、少しでも訣らぬ様になれば、多少の改作はしてでも、之を理会出来る様にしてゆかねばならぬ。ところが、改作をしても何ら差支へのない箇所と、絶対に、之だけは改作の筆を入れる事の出来ぬ、といふ箇所とがある。即、神々のこと、宮廷のこと、神聖な歌謡・諺などは、
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