ことであつた。
今日残つてゐる、祝詞の最古いのは、延喜よりもつと早く、書き留められたものであらうが、新しい息のかゝつてゐないものはない。平安朝の末になつて、不思議にもたゞ一つ、古い祝詞が、偶然と言うてよい事情によつて残つた。宇治の悪左府藤原頼長の書いた「台記」の中に、近衛天皇の大嘗祭の時に、中臣氏の唱へた寿詞――中臣天神寿詞――が、記してある。天神寿詞といふものが、此他にも、古い家に伝つてゐたであらうが、神秘を守つた為に、亡びて了うた。氏の長者としての勢力によつて、大中臣――藤原氏が分れてから、中臣は、大中臣と称した――に伝つてゐた神秘な寿詞をも、書き留めることが出来たのである。
頼長によつて亡びずに済んだ、この中臣天神寿詞も、古い形その儘ではなく、代々少しづゝ、変化させてゐることゝ思ふ。此寿詞も、最神秘なところは、書き漏してゐて、伝へてゐない。
延喜式祝詞は、公の席上で述べることの出来るものだけで、神の内陣で、小声で唱へる神秘な語、即、宮廷の采女等によつて、神秘が守られてゐたものは、亡んで了うた。亡びない迄も、固定して訣らなくなり、或は改作せられて、半分訣つたものとなつた。訣り過ぎると、神聖味が薄くなると思うたのであらう。
古事記・日本紀ともに、其文章は、同時代のものを記してゐる、とは言へないばかりでなく、此事を頭に入れて置かなくては、国語の研究は行きづまる。此点を突き破ると、国語・国文及び、日本神道の研究も、変つて来ると思ふ。此までの研究は、余りに常識的な、一時代前の研究を、基礎としてゐたのである。
五 信仰推移
日本の神道並びに、日本の国民道徳は、大昔なりに、一つも変つてゐないやうに、予め考へてゐるが、実は段々、変化してゐるのである。其は、此迄の考へ方からすれば、不愉快な事であらうが、変ればこそ、良くもなつて来てゐるのである。我々の祖先は、いづれ今程、いゝ生活はしてゐなかつたらうと思ふ。
もう一つの考へは、昔は理想的の国であつたが、今はおとつよ[#「おとつよ」に傍線]、仏教の所謂、澆季の世であるとする事である。其は、空想にすぎない。昔の道徳・信仰が、今までの間に、次第に変化してゐることは訣る。それだからと言うて、今の道徳・信仰が、直に宜しくないとは言へない。動揺してゐるのが統一され、整理せられるだけの時代を経て、後に、価値の多寡を言ふことが出来る。其原理を導き出すのには、今の方法では駄目で、今一度、昔に還つて、省みなければならない。
日本の神典を見て、一番困ることは、神と神でないものとの区別が、明瞭でない事である。古事記その他の書物に現れた、霊的な人々の記録は、同じ時代の事であると考へては、何時まで経つても、ほんとうの事は訣らない。古事記にしても書きとめられた時より、五百年以上も前の事があると見て、はじめて訣つて来る。古事記の中には、神になり切らない、霊的なものと、神になつたものとがある。
日本の信仰には、どうしても、一種不思議な霊的な作用を具へた、魂の信仰があつた。其が最初の信仰であつて、其魂が、人間の身に著くと、物を発生・生産する力をもつと考へた。其魂を産霊《ムスビ》と言ふ(記・紀)。産霊は、神ではない。神道学者に尋ねても、産霊神と、神とを一処にする人は、まづあるまい。此神は無形で、霊魂よりは一歩進んだもので、次第に、ほんとうの神となつて来るものである。
日本の神典を見ると、神とたま[#「たま」に傍線]とを書き分けてゐるが、此には理由がある。不思議な霊的な魂の外に、人間に力を与へてゐた魂で、其人の死後も、個人のもつてゐた魂だ、と考へられるものがある。此魂の一部分は、聖なる資格ある人に著くものである。其の他の部分は、其人だけのものである。国・邑の魂の数は、定つてゐる。此には、証拠がある。其魂が、出たり這入つたりしてゐる。一人の人が死ぬと、其魂は、外のむくろ[#「むくろ」に傍線]に著いて、生きて来る、と考へた。其処から魂が個人持ちのものだ、と言ふ考へが、導き出されて来た。其で考へて来たのが、魂の集る処といふことである。此が、神典で一番大切な、神《カム》づまる[#「づまる」に傍線]である。
結局、玉留産霊《タマツメムスビ》[#(ノ)]神《カミ》の語原は、神づまる[#「づまる」に傍線]とおなじであると思ふ。つまる[#「つまる」に傍線]は、集中する意味だとおもふ。日本神道の純化して来た時代には、高天原が神づまる[#「づまる」に傍線]場所として、斥されてゐるが、もとは、日本の国土の外、遠く海の彼方の国が考へられてゐた。其処に集つた魂が、時を定めてやつて来て、人に著くと、人が一人殖えると考へた。
此海の彼方の国が常世国《トコヨノクニ》で、浄土・ぱらだいす[#「ぱらだいす」に傍線]或は、神の国と考へられてゐる。次第に純
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