風な歌は、皆前に言つた家族の出払つて、其後へ神が這入つて来ることを詠んだもので、此は非常に厳粛な宗教的年中行事でありまして、さうした夜に神の外に、男の忍んで来るといふ筈がない。併し、其習慣が少し緩んで来て、一部は記憶の領分に入つて来た頃に出来た民謡と言ふ方がほんとうです。幾分は現に行はれても居る事実で、其事実と空想を捏ち合せて、一種の妙な交錯した意味を感じた。其が、かうした、やゝ劇的な興味を含む民謡を生んだのでせう。
夫に嫁いだ上の貞操といふ事は、別問題です。縁づかぬ前の貞操と嫁入つて後の貞操とでは、根本観念が変つて居たのです。其が混乱を起すといふのは、神の為に臨時の嫁(一夜妻)になつた行事から、考へ方がこがらがつて、古代の貞操観念或は、今も庶民の夫婦関係といふ事が、いろ/\複雑になつて来たのです。此点では、尚色々とお話がありますが、際限がありませぬ。私の話は恋愛問題でなくて、恋愛前の問題に止りました訣です。
やつぱり一つ申し添へぬと、結末のつかぬ様に考へます。其は初めに申しました様に、万葉集に現れた恋愛の歌は、悉《ことごと》く恋愛の実感から叫ばれた作物と思うて来たのは、間違ひであります。此事を言ひたいのです。名高い物になつた恋愛の歌といふものは、応用的のもので、実感を湛へたものでない。
歌垣の話ですが、最後にあげました村人が神の庭に集まる神祭りの場合、村中の男と女とが、極めて放恣な――後世から見て――夜の闇に奔馳する。さうした事は、神の資格に於て、村の男が、神の巫女なる村の女に行き触れて居たのです。祭り場の空気が、そこまで有頂天に人々をさせる迄の間は、男方と女方とに立ち場処を分けて、歌のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]をする。男方から謡ひ出した即興歌に対して、女方からあとをつけるといふ儀式がある。此を歌垣と言ひ、方言ではかゞひ[#「かゞひ」に傍線]・をづめ[#「をづめ」に傍線]などと言うたらしい。男と女のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]だから、性的な問答が中心になる。而も相手を言ひ伏せる様な文句が闘はされるのです。性愛の相手を求めるのでなく、語《ことば》争ひがかうした儀式の目的なのです。だから、其間にとりかはされる恋愛問答の歌は、相手の足をすくはうとか、凌駕しようとかいふ点に、焦点を据ゑます。さうして発達した――かういふ場合が短歌を伸びさせたのです――恋愛の歌は、大抵内容のない誇張した抒情詩になる。語の上の争ひに陥る。平安朝になつても、大抵恋愛問答といふものは、さういふやうな詞の上だけで、人をたらす[#「たらす」に傍点]やうなものになつて行つた。
日本の初期の恋歌は、恋愛の実感から出て居るものではない。神の祭りの夜のかけあひ文句[#「かけあひ文句」に傍線]――いはゞ揚げ足取りのやうなもの――から出ました。それだから、其恋愛に、真実味といふものがない。あるのは無意識の性の焔と、機智の閃きとです。さうして出来た恋歌の、稍醇化せられかけた万葉集の牧歌的気分に充ちた半成の抒情詩を、人は誤解して居ます。万葉人はすべて、命がけで恋愛生活に没入して行つたといふ風に考へるのです。唯強い性の自在を欲する潜熱に、古代人の生活の激しさが見えるだけです。
[#ここから2字下げ]
稲|舂《ツ》けば、皹《カヾ》る我が手を。今宵もか、殿《トノ》の若子《ワクゴ》が 取りて歎《ナゲ》かむ(万葉集巻十四)
[#ここで字下げ終わり]
奴隷の女(婢)の悲痛な恋愛の様にとられて、感激させられ易い歌です。但《ただし》、かういふ歌は、作られた場合と、其が伝誦せられた道筋がわからない。さう言ふ歌が沢山ある。其情熱は、けれども、劇的のものであり、背景をなす生活状態に、戯曲風の感動を導くものです。かう言ふ気分を民謡に謡ひ出したといふのは、古代人の粗野な、残忍な性愛の上に、段々醇化が行はれて来た証拠なのです。
其には歌垣のかけあひ[#「かけあひ」に傍線]といふ事が働いて居る。つまりさうした処から日本人の恋愛観は進化して来た。歌垣の秀歌が段々世間にうたひ広められて、人々の頭へしみ込んで行つた。そこで、日本人にほんとうの恋愛といふものが生れてくる。奈良朝では、末期に至つて、純粋な恋愛詩がいくらか出て来たに過ぎないと言ふ外ありませぬ。其にも、段々議論がありますが、要するに万葉集の恋愛歌を純なものとして考へて居るのは、間違ひである。遊女の作つた歌みたやうな気持ちがある。
[#ここから2字下げ]
あしびきの山の雫《しづく》に、妹待つと、我立ち濡れぬ。山の雫に(大津皇子――万葉集巻二)
我を待つと、君が濡れけむ あしびきの山の雫にならましものを(石川郎女――万葉集巻二)
[#ここで字下げ終わり]
かういふ唱和の歌を見ますと、後の女の歌は、如何にも人をたらす様な、篤さの尠い物だと感ぜられるで
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング