ものでない、其をなぞつて、内容を持つて来たといふやうなものが、沢山あるやうに思ひます。日本の古代の恋愛――古い時代の万葉集、或は其よりもつと古い日本紀に載つてゐる恋愛の歌といふものは、多くはほんとうの恋愛の歌ではありませぬ。かう申しますと、万葉集愛好者等が非常に失望するかも知れませぬが、事実は、ほんとうの恋愛の歌ではないのです。其に就て話をして見たいと思ひます。
前述の様に、多くの人々は、其らを一種の恋愛の実感として見たのですが、実は皆一つの空想、いや空想といふより、寧、生活から生れて来た一つの形式に過ぎないのです。譬《たと》へて見ますれば、三角関係といふ様なものは、沢山ある。万葉にも沢山あります。或は二人の男が、一人の処女を争ふ。或は多くの男が一人の処女を争ふ。或は二人の処女が一人の男を争つたらしい歌もあります。また沢山の男の争ひに堪へられないで、死んでしまふ処女もあります。併し、中には、下総の真間《マヽ》の手児奈《テコナ》といふ様な女がありますが、――あの辺はもと/\さう言ふ女が多かつたと見えまして、只今も其話が残つて居りますが――無限に男の要求を受け容れて居る。さういふ様な女もあります。併し、後に伝はつて、皆の感激を誘うたのは、男の競争に堪へられないで死んだ処女で、大抵は純潔な処女の生活を遂げて居ります。そこで、昔の日本の処女は、そんな風な純潔な女が多かつた様に、昔から信じられて居りますが、此は実は、或種類の処女の生活を現したゞけに過ぎないのであります。
一体、日本の処女の中で、歴史的に後世に残る処女といふものは、たつた一つしかない。其女といふのは神に仕へて居る処女だけであります。昔から叙事詩に伝へられて残つて居る処女といふものは、皆神に仕へた女だけであります。今で言へば巫女といふものであります。其巫女といふものは、男に会はないのが原則であります。併し、日本にも処女には三種類ありまして、第一の処女は私共が考へてゐるやうに、全く男を知らない女、第二の処女は夫を過去に持つた事はあるが、現在は持つて居ないで、処女の生活をして居る。つまり寡婦です。それからもう一つがあります。其は臨時の処女なのです。新約聖書を読みましても訣ります様に、家庭の母親なるまりあ[#「まりあ」に傍線]が処女の生活をすると言ふ事があります。或時期だけ夫を近寄らせないと言ふ事、其だけでも処女と言は
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