統に執する必要のない町人の家庭では、あきらめも早い。それだけに、目上の人々の頑に主張する事をやめてくれたのをよいことにして、其幼い望みを、満足させる気になれない、私の生活気分が寂しまれる。
私は、家びとの望みを卻《しりぞ》けて、国学院に入り、又、そこを出てから二十年、長い扶養を、家から受け続けた。兄も段々あきらめて、私の遊び半分の様な為事の成長を、待ち娯む気になつて居たらしい。「世間的に、役にたゝぬあれ[#「あれ」に傍点]の事だから、一生は、私が見てやります。」こんな事を、親しい隣人たちには、時々、言ふ事もあつた様で、せんもない[#「せんもない」に傍点]私の為事を、無言の柔和な眦で、瞻《ミ》つめて居てくれた。世間から見れば、まことに、未練・無知なひいき[#「ひいき」に傍点]に過ぎなかつたのである。私の一生を、後見るつもりでゐた兄の心が、今では却つて、はかないものになつて了うた。

けれども、兄ひとりが、寂しかつたのではない。私とても、一族を思ひ、身一己を思ふと、洞然とした虚しい心に、すう/\と、冷い風の通ふ様な気がしてならぬ。私の学問は、それ程、同情者を予期する事の出来さうもない処まで、踏みこんで了うてゐる。しんみ[#「しんみ」に傍点]になつて教へた、数百人の学生の中に、一人だつて、真の追随者が出来たか。私の仮説は、いつまでも、仮説として残るであらう。私の誤つた論理を正し、よい方に育てゝくれる学徒が、何時になつたら、出てくれるか。今まで十年の講座生活は、遂に、私の独り合点として、終りさうな気がする。唯珍らし相な主題、伝襲を守るを屑《いさぎよ》しとせぬ態度、私の講義は、かうした意義で、若い人気を、倖に占め得た事もあるに過ぎない。兄の理会のない身びいきも、結句、あり難く思はれて来る。
でもまだ/\、兄のうへを越す無条件の同情者が、尠くとも一人は、健在してゐる。前に述べた叔母である。私の、此本を出さうと決心した動機も、この人の喜びを、見たい為であつた。だから第一本は、叔母にまゐらせるつもりである。叔母は必、かこつであらう。かういふ、本の上に出た、自分の名を見ることのはれがましさの、恥ぢを言ふに違ひない。兄が、かうなると思はぬ先から、私の考へてゐた事なのである。叔母に捧げる志は、同時に、兄の為の回向にもなつてくれるであらう。
学問の上の恩徳を報謝するためには、柳田国男先生に献るのが、順道らしく考へないではない。でも、その為には、もつと努力して、よい本を書いてからにせねばならぬ気がする。其ほど、先生の学問のおかげを、深く蒙つてゐるのである。先生の表現法を摸倣する事によつて、その学問を、全的にとりこまうと努めた。先生の態度を鵜呑みして、其感受力を、自分の内に活かさうとした。私の学問に、若し万が一、新鮮と芳烈とを具へてゐる処があるとしたら、其は、先生の口うつしに過ぎないのである。又、私の学問に、独自の境地・発見があると見えるものがあつたなら、其も亦、先生の『石神問答』前後から引き続いた、長い研究から受けた暗示の、具体化したに過ぎないのである。
其ほど、先生の学問の領域は広く、さうして、深く人を誘惑せずには居ないものである。私は、此学問の草分けに、かうした人を得た、日本の民俗学のさいさき[#「さいさき」に傍点]のよかつた事を思ふ。さうして、不肖ながら、其直門として、此新興の学徒の座末に列する事の出来た光栄を、不思議とさへ考へることがある。今では、先生の益倦まぬ精励が、我々の及ばぬ処までも、段々進んで行つて居られ、新しく門下に参じる人たちも、殖えてゆく一方である。或は心理学的に、社会学的に、日々新しい研究法を加へて行かれる姿がある。発足点から知つた私自身は、一次・二次のものに、固執してゐるかも知れない。使徒の中、最愚鈍な者の伝へた教義が、私の持する民俗学態度かも知れない。併しながら、私は先生の学問に触れて、初めは疑ひ、漸くにして会得し、遂には、我が生くべき道に出たと感じた歓びを、今も忘れないでゐる。この感謝は、私一己のものである。先生に向うて、日本民俗学の開基を讃へる人は、別にあらう。その意味においては、此本は恥しながら、槃特《はんどく》が塚に生えた忘れ茗荷の、一|本《もと》に過ぎない。兄の扶養によつて、わびしい一生を、光りなく暮さねばならなかつた、さうして、彦次郎さん同然、家の過去帳にすら、痕を止めぬ遊民の最期を、あきらめ思うてゐた私の心に、一道の明りのさす事を感じたのである。
其は、新しい国学を興す事である。合理化・近世化せられた古代信仰の、元の姿を見る事である。学問上の伝襲は、私の上に払ひきれぬ霾《ヨナ》の様に積つてゐた。此を整頓する唯一つの方法は、哲学でもなく、宗教でもないことが、始めてはつきりと、心に来た。先生の学問の、まづ向けられた
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