線]といふ言葉でも、普通には訣つてゐると思うてゐるが、万葉には、八隅知之・安見或は万葉仮名で書いてあつて、その頃にも、既にいろ/\違うた考へで、其言葉を使うてゐた事が知れる。すると此は、もつと考へて見ねばならぬ事なのだ。安見といふのも、何だか支那臭いが、併し、安らかに治めるといふ事に基づいてゐるのかどうかを考へて見る必要はある。
天皇の始終、お出でになるところを、安殿と書いて、やすみどの[#「やすみどの」に傍線]と読ませてゐる。大安殿・小安殿と分れてゐるが、元は一つであつた。此やすみどの[#「やすみどの」に傍線]ゝ、書物に於ける用語例を、だん/\調べて見ると、祭りの晩に、尊い方が、添ひ寝のものとやすまれる処が、やすみどの[#「やすみどの」に傍線]であつたらしい。すると我々のやすむ[#「やすむ」に傍線]といふ語と、非常に近くなるが、併し、さう簡単に、今の語と、昔の語とを妥協させる事は出来ない。まう一つ考へて見ると、昔は非常に尊い人が、女と一しよにやすむ処が、それであつたらしい。それから延いて、尊い人の胤を宿した人を、やすみどころ[#「やすみどころ」に傍線]・みやすどころ[#「みやすどころ」に傍線]などゝ呼ぶ、平安朝の語が出来て来たのだと思ふ。
かう考へて見ると、その言葉が、段々訣つて来るやうに思へる。やすみしゝ[#「やすみしゝ」に傍線]も、何か祭りの時の、印象のある言葉かと思ふ。その時天皇は、遠い処から来たやうな、変つた風をして、常は会はぬ正殿で、改つて人に会ふ、といふ様な事があつたかも知れぬ。とにかく、はつきりせぬが、その輪廓だけは訣る。かうした言葉の数を蒐めて行くと、微かながらも、其ほんとうの姿が訣つて来る。
八十国・八十島といふ、数で表れてゐる語も、普通は、安らかといふ風に考へてゐるが、何か、前述のやうな意味に、関係があるかと思ふ。我々は馴れてしまつて、顧みないのであるが、昔は、国といふ言葉は、明らかに、島と対立した言葉であつた。
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天ざかる鄙《ヒナ》の長路《ナガヂ》ゆ恋ひ来れば、明石の海峡《ト》より大和島見ゆ(万葉巻三)
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といふ歌の、一番進歩した説明では、大和の国を、島と称したと云つてゐるが、秋津島その他が、水で取り囲まれてゐるからだと云ふのは、逆の考へ方である。島は、自分が持つてゐる国、治めてゐる国といふ意味だつたのが、段々、普通に使はれるやうになつたものであらう。
此に対して、国は、天皇に半分服従し、半分独立してゐる処であつた。絶対に服従してゐるといふのは、神世からの極少数で、他は皆、天子の国と、即かず離れずの関係にあつた。
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おしてるや難波の崎よ。出で立ちて、わが国見れば……
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といふ仁徳天皇の御歌の国も、うつかりすると、大和と見えるが、此は、部下の国を見、部下の国を褒める言葉である。自分の国をいふ島なる語が、段々変化して、普通に用ゐられなくなり、且宮廷に属してゐる地方が、皆国だから、宮廷のある所まで、国といふやうになつたのである。かうなると、我々は、正当に使つた島といふ言葉があると、何か異様に感じて、水を廻らした島、といふ古い言葉が転じて、国の一区劃をも云ふやうになつた、と云はねば収まらなくなる。此は口頭伝承の、国語に移つてゆくにつれて、起る変化である。

     五

古事記のにゝぎ[#「にゝぎ」に傍線]の命天降りの段に、うきじまりそりたゝして[#「うきじまりそりたゝして」に傍線]といふ言葉があるが、これは、何の意味か訣らない。日本紀には、浮島なる処にとし、又その一書には浮島なる平にとなつてゐる。そんな変なことは無い筈だが、口頭伝承は、このやうに、まち/\に伝つてゐるのである。日本の古書には、古い程、又神聖な程、かうしたものが多い。大切だと思ふ処は、一生懸命に守つてゐるが、其処に意志を加へないから、益、変化してしまふ。
あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]、くにつゝみ[#「くにつゝみ」に傍線]といふ言葉がある。此については、既に書いた事もあるが、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、くにつゝみ[#「くにつゝみ」に傍線]に対してゐるとされてゐるが、さうではなさ相である。すさのを[#「すさのを」に傍線]の命が、天上で犯した罪の償ひに、其時期になると、天上のことを地上にうつして、我々がせねばならぬ慎しみ、即日の神、日の神の作物に対する物忌みが、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]である。くにつゝみ[#「くにつゝみ」に傍線]は、更に不思議であるが、此は、我々の考へてゐる程、古いものではないらしい。つまり、つみ[#「つみ」に傍線]の意味には、穢れ・物忌みに於ける、又神が欲しいと思ふと、神にあげる為の、慎しみをいふ意味もある。
あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命が、天上の田を荒した為、その時期になると、神に仮装して、田作りを助けに来る。即、償ふのである。畢竟つゝしみ[#「つゝしみ」に傍線]とつみ[#「つみ」に傍線]とは、さう、意味は変らぬのである。かうして、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]を考へて見ると、実は、変なものである。昔の人の考へ方がよいか、自分の考へ方が悪いかといふと、それは、語自身の罪であつて、八心思兼神が悪いのである。
端的に云ふならば、あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、あめつゝしみ[#「あめつゝしみ」に傍線]である。言ひ換へれば、ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]と言ふ事だと思ふ。この言葉は、万葉にもあつて、雨づゝみ[#「雨づゝみ」に傍線]とも云うてゐる。物忌みは、五月と九月との二度あつて、其中、五月のが主である。それは、ちようど霖雨の時だから、此をながめをする[#「ながめをする」に傍線]といひ、更に略して、ながむ[#「ながむ」に傍線]と言うた。この慎しみの期間は、禁慾生活をせねばならぬのである。此が、平安朝の、物語にある、ながむ[#「ながむ」に傍線]といふ言葉の原であつて、つまり、長い間の禁慾生活をして、ぼんやりしてゐる。其がながめ[#「ながめ」に傍線]であつた。
此ながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]即雨づゝみ[#「雨づゝみ」に傍線]を、どうして今まで、天つ罪と、関係して考へなかつたのであらうか。違ひは単に、濁りだけのことである。昔の人には、つゝみ[#「つゝみ」に傍線]でも、づゝみ[#「づゝみ」に傍線]でも、同じ事であつた。此が、田植ゑや、田に関した物忌みで、霖雨の頃にするのである。此事が、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命の話と結びついたのだ。あまつゝみ[#「あまつゝみ」に傍線]は、実は、何でもない事なのである。此について、天つ罪がほんとうだと、云ふ人があつても、日本の伝承の素質では、何方にでも云ひ得るものを持つてゐるので、其を違ふとも云ひ切れない。
以上甚、纏らぬことを述べたが、たゞ日本の語源説とか、文法とかでは、もつとやり直してもらはねばならぬものが沢山ある、といふことだけを考へて頂ければ、此話の目的は、達せられたわけである。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第二巻第一号」
   1930(昭和5)年1月
※底本の題名の下に書かれている「昭和五年一月「民俗学」第二巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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