はやり語[#「はやり語」に傍点]なんかで、新らしく内界を具現する必要はない筈である。而も、われ/\の精神内容は、一日百個のはやり語[#「はやり語」に傍点]を歓迎するだけの余裕と、渾沌とを残してゐる。又、他の方面から見ると、誰しも口癖を持つてゐないものはなからうが、其人々の精神内容が、何時も一つの言語表象に這入つて来るといふことは、他の理由は別として、我々が、微細な表象の区劃を重んじてゐぬといふことも、明らかに一つの理由でなければならぬ。此から推して見ても、現代の言語が、必しも現代人の心理に随応した総てゞあるといふことは出来ないであらう。其上我々の感情なり、思想なりが、一代毎に忘られて行つて、形さへ止めないものならば格別、実際|日本武《やまとたける》や万葉人の心は、現在われ/\の内にも活きてゐることを、誰が否むことが出来よう。今、古語・死語を用ゐる範囲を最小限度に止めても、尠くとも此心持を表象するに当つては、彼古語・死語を蘇らして、何のさしつかへがあるだらう。
このやうに古典的な心持でなくても、現に我々が日常其内に生きてゐる精神作用も、古語や、死語には緻密に表現せられてゐるに係らず、現代の言語には其表象能力を備へないものが往々ある。其等の内容を現すに、一々新語を造ることの出来ないわれ/\は、古人が用ゐ慣し而もわれ/\の祖先の生活内容が、一度は盛られて来たことのある言語を用ゐる事に対して、いひ知らぬ誇りと権利とを感じるのである。けれども単に其だけで以て、古語・死語の復活に努めてゐるのでない。われ/\は此内容を盛るに最適切な形式を、各時代の語彙の中から求め出さうと思ふのである。
われ/\の古語・死語をば復活せしめようと努めるのは、単なる憬古癖を満足せしめる為にするのだと思うてはならぬ。われ/\は骨董品に籠つてゐる、幾百年の黴の匂ひを懐しまうとする者ではない。われ/\の霊は、往々住すべき家を尋ねあてることが出来なくて、よすがなくさまようてゐることがある。其霊の入るべき殻があるとさへ聞けば、譬ひ幾重の地層の下からでも、其を掘り出さずにはゐられないではないか。妄りに今を信ずる人々よ。おん身らは自己を表現するに忠ならざるより、安じて放言してゐる。現在のわれ/\の生活は、現在のわれ/\の生きた語によつてのみ表されると。併しわれらの生命の律動には、我々の常に口にする語ばかりに、宿しきれないものがあるのである。



底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
   1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「アララギ 第十巻第二号」
   1917(大正6)年2月
※底本の題名の下に書かれている「大正六年二月「アララギ」第十巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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